私の一言コメント、俺にも言わせろ、応援コメント、そうなんだコメント
一歩一歩実現ヘ
御徒町フォークダンス研究会 佐 野 政 治 1981.10
私はフォークダンスを踊るとき、ふと頭の中をよきるものがあります。それは、これらの踊りの本物か在るところに一度行ってみたい、一緒に踊ってみたい、そして私たちか踊っている踊りはどのくらい正しいのだろうかを確かめたいと思うことでした。海外へ行って勉強したときも、日本へ呼んで教わったときもできる限りオリジナルに近い方からと心かけていました。そして、現地の村に入り、実存の、または近年まで存在していたフォークダンスを調査したいと夢見ていました。
20数年前、私の例会・研究会を一日も休まず踊っていた学生がいました。
卒業後彼は東ヨーロツパを中心に、取材検閲が厳しい社会主義政権の時代にも、辛抱強く毎年着実にフ才一クロールドキユメントを取材記録していきました。そして自分の足で確認し、今では膨大な記録と情報を基に、今までに来日した舞踊団とは一味違う、オリジナルに限りなく近い舞踊団から私たちに紹介してくれました。
今回はその招購にもっとも困難なルーマニアから(なぜならば少数民族の素晴らしい伝統と文化はその国にとって隠したがるものだから)トランシルパニア民族舞踊団を、そして次回はと・・、期待せずにはいられません。私の夢、私たちの夢に向かって一歩一歩実現させていくてっちやん(増永哲男君)に感謝し、応援していきたいと思います。
ボス・増永哲男
小林岳丸 1993.01
今回の公演のディレクター増永哲男はビデオテクニカの代表であり、文字どおり我々のボスである。彼を一言で絡介するのは不可能だが、あえていうなら「とにかく非常に強烈な個性の持ち主』である。あまりにも強烈な主義主張を持っている為に摩擦を生じる事もあるが、一度理解されればとことん共感をもたれるタイプである。時に理解するのが非常に困難なことがあるのも事実だが、ここにには書けない。
今でこそ東欧諸国は自由化が進み、社会主義時代に比ぺれば訪間する事はかなり、いや非常に楽になった。しかしつい数年前までば西側諸国のジヤーナリストにば閉ざざされた門であった 。チャウシェスク政権下のルーマニアで、少数民族の村々をまわって撮影を続けている不審な外国人として秘密警察の尋問取り調べを受けた話などは何度聞いても冷や汗ものである。そのチャウシェスク政権が倒された時も増永ばいつものようにクリスマスの取材のためトランシルバニアの村の中にいた。村人と共に流血草命を内側から見つめていた 。新聞記者もテレビカメラも事件が起きた後に取材に出かける。日本でもずいぶんと報道されたが当然どれも今一つビンとこなかった。しかし彼らの生の声を聞いていたボスからの話からは、マスコミの報道などからは想像もつかない諸問題の裏の顔を知ることができた。もっともこの時期ばかりは徹夜で二ユース番組を見続けてボスの安否を気遣わねばならなかったが・……。
それほどまでして東欧緒国へ通い続けてオリジナルの民族舞踊を求めて取材記録を続けている。何のために。三度のメシより好きな本物の踊りがそこにあり、そしてそのすばらしい踊りを毎日の生活の一部として暮らしている愛すぺき人たちがいるから。イースター、結婚式、クリスマスから新年にかけてと村の人々が踊りに打ち興じる時期、ボスの姿は日本には見られない,毎冬雪と氷の道を村から村へと車を走らせて新年を迎える。あたかも村人の一人であるかのように何の違和感も無く人々の間に溶けこんでいる彼の姿に永年の実績とその重みを感じる。
7、8、9月とステージ・レポート部門は国内の発表会シーズンでてんてこまい。クラシヅクバレェ、モダンバレェ、ジヤズ・ダンスに日本舞踊と我々留守チームが日本でステージ舞踊の撮影に編集にと追い回されている頃、我らがボスは一人悠々とハンガリーにスロバキア、ユーゴスラビアにギリシヤ、ポーランドとフオ一クロールフエステイパルを撮影し 、その間にトランシルバニアの村々に遊ぶ。そして我々ば大好きなフオークロア・ダンスに関する土産話を首を長くして待ち続けるのだ。
こうした長年の積み童ねの中で現地の村の人々と親交を深め、その踊りに魅了され数多くのプロフェツショナルの舞踊団、そして優秀なアマチュアのグループやそのディレクター、コレオグラファーたちと知り合い、ついに昨年(1992年1月)のルーマニア国立トランシルバニア民族舞踊団の日本公演を実現させた,
現地の優秀な舞踊団による、できる限り村の踊りに近いステージを 、日本の舞踊愛好者の方々に生のステージで見ていただきたいというフォークロールレポートの新たな活動のスタートである。既成の舞踊団のステージ・バレェ化されたプログラムを日本にもってくるのでは気が済まず、複数の舞踊団から優秀なメンパーを集めて新たに来日公演舞踊団を作ってしまう。既成プログラムの中の不適当な部分を片っ端から措摘して、極カ村のオリジナルに近い形の踊りに構成し直させる。こんなにうるさい招聘責任者はいまだかつて見たことも聞いたこともない。その作業の底に流れている「村の踊りへの限りなき熱い思い』と、現地の舞踊関係者をも納得させてしまう知識の豊富さに改めて敬服させられる。
スロバキア国立民族舞踊団の日本公演に先立って公開された当地での試演公演はその全体構成の完成度が非常に高いことに対して政府、報道、舞踊関係者に絶賛された。その構成シナリオを書いたのは我がボス増永であることはいうまでもない。皆さんにも理屈抜きで楽しみ、そして感動して項けるものと信じて疑わない。お話ししたい裏話は星の数ほどありすぎるので機会を改めることにしよう。ただ一つだけ、ボスを筆頭にスタッフー同踊りをこよなく愛し、踊りが好きで好きでたまらないがゆえの踊りの撮影であり、それが高じての舞踊団の来日招聘であることをご理解いたたければ幸いである。
1993
ドクルトゥのメロディ
(社)日本フォークダンス連盟顧問,御徒町フォークダンス研究会 会長 佐野政治
7年前の春(1985年)、私はてっちゃん(増水哲男氏を私達は通称そう呼んでいる)に相談をもちかけました。「日本ではたくさんのフォ一クダンスか踊られているが、フオ一クロアが豊富なのにあまり紹介されていない国はどこだろうか?」てっちやんは「それはトランシルバニアとスロバキアです」と直ぐ答えてくれました。「将来にわたって指導を受けられる有能な指導者は?」「スロバキアにバルガ・エルビン(Ervin Varga)氏がいます」と。そして、てっちやんの即実行の紹介により 、その年の秋、バルガ氏の来日指導を実現させました。
彼は一度に何曲も教える指導者とは違いドクルトウとチヤルダシユだけをたっぷりと時間をかけて教えました。一つ一つの踊りを大事に、厳しく教える氏の踊りに対する姿勢と、ドクルトウを最初に教えた深慮ある人柄(スロバキア国歌のメロディはドクルトウのメロディであることを暗に知らしめたように)とスロバキアの踊りの奥の深さに真に魅せられ、以後毎年指導を受けています。そのバルガ氏かスロバキア国立民族舞踊団のコレオグラフアーの一人として来日され、私達の習った踊りが目の前でくりひろげられることに喜びをかくしきれません。また日本全国の人達がスロバキアの踊りの素晴らしさに、諸手を上げて拍手喝采されることを確信しています。最後に増水氏はじめ各公演関係各位のご尽力に対し心から敬意を表するとともに、公演のご成功をお祈り申し上げます。
1992.10
続・ボス増永哲男
小 林 岳 丸 1996.01.04
苦しい公演経営にも、いつも「フォ-クダンスは楽しいし面白い」と弱音を吐かないボス、増永哲男について続編を。
プログラムでは踊りの地方名、代表的な村の名前、踊りの種類名前が記されるように、「フォ-クダンスのオリジナリティを重要視した構成で、フォ-クバレェではなくフォ-クダンスをプロの舞踊団に踊ってもらおう!」、これがボスの日本公演制作の基本にある。 各地のオリジナルな踊りを十二分に踊りこなすだけの・・・・・ ・・・ ・・・・・・・含んだ面白いツア-も企画している。
ここでツア-に楽しく参加するための、ボスとのつき合い方のアドバイスをひとつ。できるだけボスのリズムに合わせること、けっしてボスは私達のリズムに合わせようとしない。こちらが立ち止まったら最後、どんどん離され見えなくなってしまう。残された者に援助の手は出さない。きっとツア-で泣かされた方も一人二人では無いはずです。ボスの最大の欠点(個性)でもあり、幾度も泣かされ慣らされた私には良くも悪くも唯一無二の強力な牽引者でもあります。でも自然体でボスを掴まえていれば、彼の長年の経験からコ-ディネ-トされた15日間はお伽話のような夢のような世界にあなたを案内します。そのようなツア-参加の後、フォ-クロ-ルの世界にハメられ、ますます深みにハマって行く方をたくさん知っています。私もその中の一人なのです。東京のように・・・・・
マケドニアの踊りの素晴しさ、精神性の高さ
郷民俗舞踊研究所 所長 民俗舞踊家 郷 成仲
タネツ来日に寄せて 待望の、あのタネツが来日公演をすると聞いてびっくりすると同時に、新たな感動を覚えました。あの素晴しい踊りと音楽を日本で見たり、聞いたりできるのですから。
マケドニアの踊りの素晴しさ、精神性の高さを見たのは、とあるフェスティバルで見たおばあさんでした。村から出てきたままの普通の洋服を着、杖をついて他の数人と共に舞台に登場しました。ただ一緒に出てきたと思っていましたが、なんと踊りの列の先頭にたち、スカーフを振りながら踊り出しました。曲がっていた背筋も伸び、数人を従え、誇りに満ちた踊りを見せてくれ、まさに本当の民俗舞踊の感動を与えてくれました。退場するときは、踊っていなかったように腰を曲げ、杖をついて歩いていました。もちろん、会場からは大きな拍手があったのは言うまでもありません。このような、踊りの雰囲気も、今回の公演での大きな見所ではないかと思います。ほかにも鮮やかな衣装とバラエティに富んだ楽器で、マケドニアの文化の真髄を見せてくれることでしょう。
マケドニアは、東西の文化の十字路として他国との試練と忍耐の歴史を持っています。そのため、さまざまな文化的要素がまじり合い、独特の文化を育ててきました。例えば、タパンという大きな太鼓から繰り出される意表をついたリズムとそれに合わせた踊りとが絶妙のバランスを見せてくれます。音楽的にも意表をついたリズムが見られ、マケドニア独特の世界を見せてくれることと思います。
私事で恐縮ですが、永い闘病生活にも光が見えてきて、再び元気に活動できる日が来そうです。この時期に私を支えてくれた増永氏を始め、多くの方々に紙面をお借りして感謝の意を捧げたいと思います。
1996
複雑なリズム、「ため」のあるリズム
民俗舞踊研究家 先崎廣伸
マケドニア国立舞踊団タネツは、1949年に創始され、1950年6月に初コンサートを開いています。1948年から1950年は、旧ユーゴスラヴィヤで国立の舞踊団「コロー」や「ラド」などが次々に生まれた時期でもありました。第二次世界大戦直後より、
都市部ではいくつものダンスグループが生まれはじめており、それらは、各々の出身地の踊りを競い合う(Cプロの様な)形からはじまって、お互いに教え合ってレパートリーが作られていきました。タネツは、これ等のグループからの選抜メンバーではじめられたので、当初のレパートリーとしては、コレオグラフされていないナチュラルなフォーダンスそのものを踊っていました。
本来マケドニアは、その起伏に富んだ土地柄からか、複雑なリズム、しかも規則的にきざむだけでなく、「ため」のある深いリズムをもっているので、当時のレパートリーによるコンサートでも各国で大好評を博しました。 1953年よりユーゴスラビアの一員として他共和国の歌、踊りを取り入れ始め、1960年代から70年代に組曲としてのレパートリーが確立しています。
1996
Cプロに期待
民俗舞踊研究家 先崎広伸
良く訓練された踊り手達か、コレオグラフに従って一糸乱れず踊るのを見ることは素敵な楽しみであるか、時として、技術的にも特に見るぺきもののない、また訓練されたとは思えない人が、思うがままに踊っている時、それに大きな感動を覚えることがある。私など、異国のプログラム表紙田舎に取材したり、あるいは各地で実地指導したりするとき、その様な感動にめぐりあう。彼らは決して上手なダンザーでなかったり、校術的にも稚抽だったりする。けれど、自分の為に、自分いっばいに踊っている。体いっはいに、心いっばいに踊りを楽しんでいる。
訓練された踊り手達が、勿論自分いっばい踊れない理由はないのであるが舞台等で、踊るとき、その「位置関係」や「解りやすさ」といったコレオグラフによって、逆に制限を受けてしまう場合か多いのだ。舞台上で長時問、自由に踊らせた場合、収拾はつきにくいレ観客としても何を見たらいいのか、何が起こっているのかも解らない、というのが普通で、それでコレオグラフの価値、必要性も出くるわけだか、敢えて、それを取り外レ観客、あるいは、コレオグラファーよりの非難も覚悟の上で、新しい感動の機会を作 ってくれた。
そして、世界でもはじめての企画と思われるCブロで真のフォ一クダンスを紹介してくれた、 フォ一クロールレポーター増永君に拍手を惜しまない。
スロバキア国立スルク民族舞踊団 SLUK
スロバキア民族の民族舞踊団である国立スルク民族舞踊団を中心に、スロバキアに住むマジャール人の民族舞踊を主とする政府管掌イフユ ・シペック(若い心)民族舞踊団の協力を得た共同制作公演となっています。政府管掌民族舞踊団としては二つあり、もう一つば1972年に来日公演したルチニッツァ民族舞踊団です。スロバキアに住む少数民族ウクライナ人、トイツ人、ジプシーの踊りもレパートリーに含まれ、全ての民族の踊りを公正に配した公演プログラムとなっています。ブラティスラバ近郊で本年1月下句から8回公開されたこの民族舞踊団は、スロバキアの歴史の中で初めての”真のスロバキア民族舞踊団”、”これからのスロバキア自身のあるべき道の指針である”という評価と期待をスロバキア全国へ大きく報道されました。スロバキア全国各地から公演希望か殺到し、日本公演からの帰国後の日程調整におわれています。
ケルト人の住むこの地に1世紀頃ゲルマン人か移動し、5・6世紀頃にスラブ人が移住し、9世紀に大モラビア帝国が形成され、チェコ(ポヘミアとモラビア)とスロバキアは統一された。10世紀にハンガリーの支配化におかれたスロバキはアポヘミア王国として栄え、14世紀に神聖ローマ帝園、オ一ストリア帝国の支配化に入り全盛期を迎える。第1次世界大戦後チェコスロバキア共和国として再び統一された。1938年ナチスドイツに占領され、45年にソ違によって解放され社会主義化が進められる。社会主義の完成宣言をうたった新憲法が60年に制定された。民主化・自由化を求める声ば68年ビークに違し「プラハの春」といわれた。この運動を恐れたソ違ばワルシヤワ条約軍をもって武カ介入させ、以後民主自由化弾圧の時代に入った。
89年、東欧の一連の民主化の波とともにプラハの学生デモから民主化運動ば高まり、11月の無血草命にて共産党支配は崩壊、市民フオーラムの八ペルが大統領に選ばれた。90年複数政党制を尊入し、6月の策1回自由通挙で市民勢力が圧勝し、そして92年6月、2回目の総選挙が行なわれた。スロバキアでは独立と経済改革の緩和を旗印とする民主スロバキア違勤(HZDS‐党首メチアル)が勝利した。8月、ブルノで開かれたクラウス・チユコ、メチアル・スロバキア両共和国首相会談で、チェコおよびスロバキア連邦共和国は本年(1993年)1月1日より独立と決まった。
チェコスロバキアの連邦解体は良織ある「協講離婚」となった。しかし、南のスラブ人違の連邦共和国、ユーゴスラビアは永くヨーロヅパであった国とパルカンであった国の結婚、またセルビア正教・カトリック・イスラム教の国の結婚、母国語と文字の違う国の無理な結婚であり、ぞの連邦解体は血で血を洗う「決裂離婚」となった。
フォークロールレポーター 増永哲男
ルーマニア国立マラムレシュ民族舞踊団
相互交流を基本にした公演を私たちは歩み続けます
フォークロールレポートは1980年、虎の門での取材記録報告会としてスタートしました。不定期だった報告会も原宿(ラフォーレ原宿)に移り、定期的にレポートを行い、グループでテーマを決めたレポートの要請にも応じたものがレポート№001から100です。ビデオの普及が著しくなった1985年に、フォークロールレポート№101からビデオの配布となりました。
№136の後4年間、フォークロールレポートは一時中断し、その間、東ヨーロッパでの取材記録を急ぎました。ルーマニアの革命(チャウセスク処刑)はトランシルバニアの村で村人とジプシーのクリスマスキャロルを聞きながら知りました。テレビもラジオも革命のニュースを流し続け、ニュースのない時は、革命前は決して有り得ないことでしたが、クリスマスキャロルと教会のミサが流れていました。
1年のうち約4カ月を海外取材に、その半分を東欧に費やし続けたフォークロールレポートですが、今までの映像でのレポートの他に実演公演のレポートを追加します。また、私達への一方通行的な公演だけでなく、日本の人達と舞踊団との交流会・交歓会・講習会の機会を各地で多く持ちたいと思います。私達にも彼達にも生の相互レポートは多大の理解と好影響を与えるものと確信します。オリジナルなフォークロールに近いもの、資金的または精神的援助を必要とする舞踊団から日本への招聘を実現させていきたいと思います。
92年1月ルーマニア国立トランシルバニア民族舞踊団を、93年2月スロバキア国立民族舞踊団を招聘いたしました。幸に皆様の熱いご支援を頂き、彼らは有形無形のたくさんの収穫を持ち帰ることができました。ここに、厚く御礼申し上げます。
ル-マニア国立マラムレシュ民族舞踊団はル-マニア北部マラムレシュ県バイアマ-レ市に本拠し、80年からの友人であり、ディレクタ-兼コレオグラファ-のブチュウ・バレリウ氏の勢力的な中央政界への働きかけによって新生ル-マニア・プロフェッショナル舞踊団のリ-ダ-的存在となっています。91年8月には32年間親しんだ”マラムレシュ”の民族舞踊団名を”トランシルバニア”と改名いたしました。
しかし、ル-マニア国立ムレシュ民族舞踊団(本拠地ティルグムレシュ)が1992年の来日公演用に”トランシバニア”の名前を91年2月に文化省に提出してありました。その後、”トランシルバニア”の名前争奪戦は現在のブチュウ氏率いる当舞踊団が獲得していますが、次の二つの理由により当舞踊団の日本公演では”マラムレシュ”の名前で今回公演いたしました。既92年にムレシュ民族舞踊団が”トランシルバニア”を使用したこと。この公演レパ-トリ-はトランシルバニアの紹介よりも全ル-マニアのル-マニア人の踊りを基調に展開しているためル-マニアフォ-クロ-ルのフラッグシップ的名前”マラムレシュ”を使用しました。
フォークロールレポーター 増永哲男
ハンガリ-国立ブダペスト民族舞踊団 BUDAPEST 1995
ハンガリ-国立ブダペスト民族舞踊団は1958年設立され、ハンガリ-共和国首都ブタペストの中心、ブダ城の中に本拠地を置き活動しています。民主化以降の近年、芸術監督にジュラフスキ-・ゾルタン、音楽監督にケレメン・ラ-スロ-を擁し、大地からのフォ-クロ-ルを見事に展開、ハンガリ-の舞踊界を驚愕させています。パワ-あふれるステ-ジは我々にフォ-クロ-ルに潜む強さを教えてくれます。
舞踊手17カップル34人、音楽6人、コレオグラファ-1人の計41名が来日します。また舞踊手の中の1カップルはトランシルバニア地方メ-ラ村から招待した夫婦です。プロ集団のなかにあっても本物の村の人達の踊りが優るとも劣らない技術、現存する村の踊りがいかに素晴らしいか、中央ヨ-ロッパの歴史の本と地図を傍らに置いてお楽しみください。
Aプロは地方・地域・村別に構成され、ハンガリ-国内と近隣諸国に住むハンガリ-人の踊り(主にトランシルバニア)や国内の少数民族(ジプシ-・ル-マニア人・クロアチア人他)の踊りも披露されます。
Bプロ第1部は1年をクリスマス、正月、カ-ニバル、イ-スタ-、メイポ-ル、夏至祭、露つみの日、収穫祭等10の年間行事に関する踊りを、第2部は結婚式に行なわれるセレモニ-と踊りを教会から披露宴の翌朝までの12のパ-トと地方で構成し、フォ-クロ-ル愛好者に必見のプログラム。
Aプロは水平軸で、Bプロは時間軸で構成されたプログラム
Cプロは舞踊手が楽団に曲を注文し、自由に踊るノンコレオグラフプログラムです。 舞踊団全員が構成振付けなしで、あたかもその村人のごとく自由に唄と踊りを展開します。
・・・隣村から迎えられた花嫁とその親戚達、他の町や村から招待された知人達・・、お酒とご馳走は隅にかたずけられ、まず新郎の友人達が自慢の踊りを披露し拍手喝采を受ける。新婦の隣村の若者も自分達の村の方が素晴らしいぞ!と唄と踊りを披露、両方譲らず、最後に両方の村がハンガリ-一番とエ-ルを交換、男達は新しい親戚友人と乾杯! その間、娘達は仲良くカリカ-ゾを踊り、男達も可憐に踊る娘達にご挨拶、・・踊りは翌朝まで続けられる・・。
解説 増永哲男
ルチニッツァ
フォークロールレポーター 増永哲男
チェコとスロバキアが円満に分離独立した93年からチェコは合理的に確実に、スロバキアはゆっくりと流れに任せて経済発展しています。この両国では民族舞踊も違っています。チェコはブラスバンドでビールを飲みながらポルカを踊り、スロバキアはワインを飲みながら弦楽器の奏でる音楽にのせてチャルダッシュを踊ります。
スロバキアには4つの国立舞踊団があります。スロバキアの歴史から民族的に3つ分けられます。スロバキア民族系SLUK(スルク・93年来日)とLUCNICA(ルチニツァ)、ウクライナルシン系PLUS(プゥルス)とハンガリーマジャール系IFJUSZIVEK(イフユシベク・93年来日)です。このうちのSLUKは純プロフェッショナル舞踊団です。他3舞踊団は民族政策の中から誕生いたしました。PLUSは東スロバキア・プレショフに本拠を置きプロ化へと進んでいます。LUCNICAとIFJUSZIVEKはブラティスラバ市街中心地にあり、良き兄弟となっています。
ルチニッツァ民族舞踊団は1948年ブラティスラバで誕生し、1970年大阪万博以来、四半世紀ぶりの来日となります。スロバキア国内の圧倒的な人気、海外公演では各国からの最大級の賛辞と評価からなる実績を誇ります。ブラティスラバ芸術舞踊大学(毎年入学定員12名・内訳:コレオグラフ科2名舞踊教育4名バレエ3名バレエ教育3名)民族舞踊科教授ノサ・ステファン氏および助教授バルガ・エルビン氏の指導のもと、主にその大学で学ぶ18才から26才の若さ溢れるダンサーで構成されています。ミス・チェコスロバキアも度々この舞踊団の中から選ばれるほどの美男美女の舞踊団でもあります。団への平均在籍期間は大学在学中の4年であり、卒業後は各地の学校・民族舞踊団または各界の中堅として活躍している様子は、国内での圧倒的人気も理解できます。定年までプロダンサーを務めるSLUKと対照的です。
民族舞踊指導者の多くはこのルチニツァから育ち、スロバキアの舞踊を長年にわたり日本に紹介しているバルガ・エルビン氏(ルチニツァ在籍ダンサー歴12年はルチニツァ史上最長を誇る)はその代表といえます。
幾世代のファッションにも通用するベーシックな民族衣装は東ヨーロッパのセンスを感じさせます。また、ひとつひとつの踊りのしぐさに娘の可愛いさが滲み出て、その瞬間の残像がいつまでもあなたのまぶたの奥に残ります。可憐に踊る娘たちと、スピードとテクニックを軽快に披露する若者たちの、若さに溢れ、パワーみなぎるステージは爽やかに私たちを魅了します。
プログラムAはルチニッツアの代表的なレパートリーで、プログラムBは「遊び・仕事・恋」(糸つむぎの娘たち・結婚式等)をテーマに構成され、特にBプロは民族舞踊の柔軟性に富んだコレオグラフ(振付構成)の傑作集となっています。プログラムCは民族舞踊の生を見ることができる恒例の振付構成なしのノンコレオグラフプログラムです。舞踊手が楽団に曲を注文し、あたかも村の結婚式のごとく自由に唄と踊りを展開します。
マケドニア国立タネツ民族音楽舞踊団 TANEC
フォークロールレポーター 増永哲男
民俗音楽、民俗楽器、民俗衣装、民俗舞踊にはそこに住む人たちの文化があります。永い知恵と汗で作り上げたその文化はそれだけで芸術かも知れません。それらに触れたとき、そこに住まない人たちも、何の知識を持たない子供たちまでも拍手を繰り返すのは、人の普遍的な価値がそれに存在しているのかもしれません。そしてこの芸術は老若男女一緒に手をとって楽しめることが素晴らしいと思います。
旧ユーゴスラビア時代にはコロー舞踊団にも勝るセルビアの踊りや、ボスニア、ツルナゴラ、クロアチア、スロベニアのバラエティに富んだレパートリーがたくさんありました。そして、なによりにもまして、アルバニアの踊り、トルコ人の踊りが素晴らしくて忘れられません。これらの踊りもタネツに希望いたしましたが、タネツは文化省直属の国立民族舞踊団であるため、その政策意向に沿わなければならないこと、そして彼らの殆どがマケドニア人であるため、少数民族系の踊りは次回に期待したいと思います。彼らは熱い心で気持ちを語っています。
「私たちは、マケドニアとして初めて独立いたしました。私たちマケドニア人の愛唱した唄を聞いて下さい、そして、みんなで手を取り合う踊りを見て下さい。私たちのマケドニアを唄い踊ることができるこの喜びを、この舞台で、日本のみなさまと分かち合えることに感謝いたします。」
マケドニア国立タネツ民族舞踊団 は1949年旧ユーゴスラビアの首都スコピエにて発足し、旧ユーゴスラビアの3大舞踊団(コロー民族舞踊団・ベオグラード・来日2回、ラド民族舞踊団・ザグレブ・来日1回)として長年活躍しました。第1次世界大戦後、マケドニアはギリシア北部、ブルガリア西部ピリン地方と今のマケドニアに3分割されました。今、激動の旧ユーゴスラビアから独立したマケドニアに、分割された地方に住むマケドニア民族の独立の求心力は今後しばらく目が離せません。
紀元前アレキサンダー率いる王国からの流れを伝えるバルカンの音楽と踊りを、美しくも哀しいメロディーと強烈な太鼓のリズムで展開いたします。舞踊手32人 音楽8人 舞台監督1人 技術2名、計43名の来日となりました
マケドニアの踊りの素晴しさ、精神性の高さ
郷民俗舞踊研究所 所長 民俗舞踊家 郷 成仲
タネツ来日に寄せて 待望の、あのタネツが来日公演をすると聞いてびっくりすると同時に、新たな感動を覚えました。あの素晴しい踊りと音楽を日本で見たり、聞いたりできるのですから。
マケドニアの踊りの素晴しさ、精神性の高さを見たのは、とあるフェスティバルで見たおばあさんでした。村から出てきたままの普通の洋服を着、杖をついて他の数人と共に舞台に登場しました。ただ一緒に出てきたと思っていましたが、なんと踊りの列の先頭にたち、スカーフを振りながら踊り出しました。曲がっていた背筋も伸び、数人を従え、誇りに満ちた踊りを見せてくれ、まさに本当の民俗舞踊の感動を与えてくれました。退場するときは、踊っていなかったように腰を曲げ、杖をついて歩いていました。もちろん、会場からは大きな拍手があったのは言うまでもありません。このような、踊りの雰囲気も、今回の公演での大きな見所ではないかと思います。ほかにも鮮やかな衣装とバラエティに富んだ楽器で、マケドニアの文化の真髄を見せてくれることでしょう。
マケドニアは、東西の文化の十字路として他国との試練と忍耐の歴史を持っています。そのため、さまざまな文化的要素がまじり合い、独特の文化を育ててきました。例えば、タパンという大きな太鼓から繰り出される意表をついたリズムとそれに合わせた踊りとが絶妙のバランスを見せてくれます。音楽的にも意表をついたリズムが見られ、マケドニア独特の世界を見せてくれることと思います。
私事で恐縮ですが、永い闘病生活にも光が見えてきて、再び元気に活動できる日が来そうです。この時期に私を支えてくれた増永氏を始め、多くの方々に紙面をお借りして感謝の意を捧げたいと思います。
リトアニア国立民族音楽舞踊団 LIETVA
フォークロールレポーター 増永哲男
リトアニアはバルト海南東岸に位置し、北をラトビア、東をベラルーシ、南をポーランド、カリーニングラードと接する人口371万5400人、国土6万5200平方キロ(北海道の78%の面積)の共和国です。1939年1月より40年8月までにカウナスに領事館が設置され、杉原千畝副領事が領事館閉鎖前にビザを発給し、ユダヤ人難民6000人の生命を救ったことは有名です。また四年に一度の、国民の半数以上が民族衣装で参加するリトアニア音楽祭は質の高さで特に有名です。次回は2002年です。彼らの合唱は本当にうまい、感心します。
リトアニア国立民族音楽舞踊団"リエトゥワ"は1946年に設立されリトアニアの首都ヴィリニュスに本拠地をおいています。バルト三国唯一の国立およびプロフェッショナルの音楽舞踊団です。ポルカを主としたレパートリーの中に18世紀上流社会のヒストリカルダンスも含まれ、その衣装と踊りは華麗そのものです。エストニア・ラトビアの踊りもレパートリーの中に含まれています。バルト海対岸のスウェーデン、南のポーランド、リトアニアとの音楽と踊りのコントラストがよく見えてくるでしょう。全てのプログラムをカンクレス(膝の上で弾くチンバロン)・スクドゥチャイ(笛)・ビルビネス(太い縦笛)等のリトアニア伝統楽器のみを使用して演奏する音楽からはリトアニア文化の誇り高さを感じさせます。舞踊手24名 音楽舞踊手8名 音楽8名 芸術監督1名 衣装2名の計43名の日本初公演となります。
4つの国立舞踊団によるハンガリアン・ジプシープログラム
フォークロールレポーター 増永哲男
しかし、旧オーストリア・ハンガリー帝国時代の文化圏に住むジプシーたち、特にトランシルバニアのジプシー達は他の国に住むジプシーたちよりもいち早く市民権を得ていました。なぜなら、金もの細工や鍛冶屋の工芸、金銀宝石類の売買は古くから馬車とテントで旅するジプシー達のお家芸でした。また町や村のクリスマス・イースター・結婚式・居酒屋(チャルダ)の音楽演奏はそこ住み着いたジプシーたちの大きな役割でした。バルトーク、コダーイ、リストの音楽の中にもジプシーのイメージが多く登場します。いまでもトランシルバニア地方(特にセイケイ地方)のジプシーたちは普段も綺麗なジプシー衣装を着て生活しています。かれらはジプシーに生まれてきたこと、彼らの生活・文化を誇りにしています。
そのようなジプシーの中からサースチャバシュ・ジプシーバンドがやってきます。トランシルバニアに住む人たち(ル-マニア人、ハンガリー人、ドイツ人、ユダヤ人、ジプシー)の地域に密着した力強い音楽を演奏します。彼らのお父さんもおじいさんも名バイオリン弾きでした。加えてこの村の楽士達は歴代名舞踊手でもあります。
ブタペストからはアンド・ドロム・ジプシーバンドがやってきます。アンド・ドロムは身近な生活の中から水瓶、スプーン等、叩けるものは何でも楽器にしてしまいます。切なくも甘く、悲しくも美しく、ジプシーの言葉で、ジプシーのための音楽を披露します。ハンガリーでは1990年にジプシー議会がヨーロッパで最初に創設され、ジプシー語による教育のための学校も創立されました。特に文字を使わない感覚伝承を基本にするジプシーたちが芸術重視の教育を受けたときの成果は今から楽しみです。アンド・ドロムのリーダーであるイエノゥ・ジグゥさんはそのジプシー議会の議長でもあります。
ハンガリーの4つの国立舞踊団(ハンガリー国立民族団、ハンガリー国立ブタペスト民族舞踊団、ホンベード舞踊劇場、BMドゥナ芸術団)とトランシルバニアからルーマニア国立マロシュ民族舞踊団から選抜された10組のプロ舞踊手20名がハンガリー国立民族舞踊団舞踊監督ジュラフスキー・ゾルタンさんのプログラム構成、総合芸術監督にバルガ・エルビンさんを迎えジプシーフォークロアを展開します。誇り高き生のジプシーの音楽を唄と踊りでご紹介します。
ゼレジアル民族音楽舞踊団 東スロバキア
スロバキアを代表する民族音楽舞踊団です。東スロバキアのコシツェ(スロバキア第2の都市)に民族芸術学校を持ち、6歳児童から18歳高校生までの300名が在籍し、一貫した民族芸術教育および公演活動をしています。成果も著しく、スロバキア芸術大学へも多くの学生を送り出し、スロバキアでの全国民族舞踊団コンクールでは圧倒的な最多金賞受賞を誇ります。東スロバキアの特徴であるチャールダシュ、クルツェナ、カリチカ、ベルブンクを中心とした"天から届けられた"プログラムを展開します。
ドゥルズバ民族音楽舞踊団 西スロバキア
西スロバキア、トレンティンに本拠地をおき、100名の団員を擁し、年間80の公演を行っています。西スロバキアの特徴である女性をリフトする踊りは高度な技術と訓練された男女のチームワークを必要とし、見るものを飽きさせません。全編に流れる軽快な音楽とポルカを中心とした"天へ届ける"プログラムを展開します。
チェコ国立オンドラシュ民族アンサンブルはチェコ国軍(空軍)に属するプロフェショナル国立舞踊団です。1954年チェコスロバキア国立ヤーノシク(JANOSIK)民族アンサンブルとしてブルノに誕生しました。1993年1月1日チェコとスロバキアは協議分離され、ヤーノシクはスロバキア語のためチェコ語のオンドラシュに名前が変わりました。団員の半数は18歳から22歳までの各地の民族アンサンブルから集まった精鋭若者です。その中の数人は次年度以降も残り、半数は職業芸術軍人となります。ハンガリーのホンベート・アンサンブル、日本の航空自衛隊音楽隊と同じです。チェコ、モラビア、シレジア地方を中心に、ヤーノシク・アンサンブル時代からのスロバキア・レパートリーも多く、バラエティに富んだプログラムで、年間180近い公演を行っています。明るく軽快なポルカの音楽で元気いっぱいの若者がチェコ民族の真髄をさわやかに展開します。
フォークロールレポーター 増永哲男
日本ルーマニア友好百周年記念公演
ルーマニア国立ムレシュ民族音楽舞踊団
ルーマニア国立ムレシュ民族音楽舞踊団はトランシルバニア地方ティルグ・ムレシュで1949年から活動を続けています。トランシルバニアの真ん中にあり地理的・文化的にも中心地です。長くハンガリー・オーストリア帝国の一部でした。そのためルーマニア人・ハンガリー人・ドイツ人・ジプシー(ロマ)の文化が混在しています。同じメロディのひとつのチャルダシュが四つの民族のタイプに演奏され踊られます。今も多くの伝統文化が生き続けています。
少数民族の伝統文化を尊重し、全員が唄って踊る舞踊団として有名です。この舞踊団は1992年ルーマニア国立トランシルバニア民族音楽舞踊団として来日し、トランシルバニアに伝承される舞踊技術と舞台迫力は観衆に感動を与え、Cプロ(村の結婚式のように自由に踊るノンコレオグラフプログラム)が上演できるニュースタイルの舞踊団として大好評を博しました。生活のリズム(牛のリズム・馬のリズム)から生まれたカップルダンス、静と動のコントラスト、パワーとテクニック、コミカルとエレガンス、全てが楽しい舞踊団でした。
92年初来日公演以来、多くの人たちがティルグ・ムレシュを訪れ経済的に苦しい舞踊団を支援し励ましました。舞踊団からも講習・研修に来日し交流を続けました。まる10年の交流成果も楽しみです。ご支援いただいた関係諸氏に深く感謝申し上げます。
ボスニア・ヘルツェゴビナ民族音楽舞踊団 CAJAVEC
2003年9月 フォークロールレポーター 増永哲男
2003年3月、ボスニア大使からの一本の電話。「『貴国ボスニアの内戦は?治安は?安全ですか?・・・』と、私は日本でのパーティでいつも同じことを聞かれます。そしてお答えします。『確かに我が国では長い年月内戦が続き、日本での私たちボスニアへのイメージは戦争と悲劇で占められています。しかし日本からの経済支援もあり順調に復興しています。』私が日本の皆様にもっともお伝えしたいことは、ボスニアの誇りである、民族文化、フォークロールの豊かさです。この素晴らしい民族文化を紹介することで、暗くつらい戦争のイメージを払拭し明るく豊かなボスニアのイメージを伝えたいのです。増永さん、協力していただけませんか?」熱心に語る当時のボスニア大使、ハジムラトビッチ・アジズ氏のこの思いを支援する形で、この企画は始まりました。その後、ボスニア共和国文化省・外務省の協力の下、25の舞踊団を訪ねました。そしてサラエボからローラ舞踊団とコロ・ボサンスコ舞踊団、バニャ・ルーカからチャヤベッツ舞踊団を選び、今回はボスニア最高のエネルギッシュでカラフルな公演でグランプリを得たチャヤベッツ舞踊団の来日となりました。
ヨーロッパに唯一育まれたイスラム文化のボスニアックムスリム人、カトリックのボスニアッククロアチア人、そして正教のボスニアックセルビア人、この三位一体が、ボスニア・フォークロールの核になり、カラフルなコスチュームと楽しいコロが展開されます。
紛争が終結し8年が経ちました。ボスニアを構成し、紛争では対立した3つの民族は、ボスニア連邦、セルビア共和国と政治的に引かれた境界線の中で生きています。他民族多文化の融合、素晴らしき多文化の国ボスニアのフォークロールを紹介します。
Cajavecはバニャ・ルーカで生まれ、昨年50周年を迎えました。ユーゴスラビア国立コロー民族舞踊団、ラド民族舞踊団、タネツ民族舞踊団を指導したバショ・ポポビッチ氏(芸術監督)が指導しています。メンバーはボスニアックセルビア人を中心とした構成です。
Aプロはグランプリを獲得したボスニア・プログラムを中心に、
Bプロは旧ユーゴスラビアのセルビア・クロアチア・マケドニアの踊りも得意とし、プログラムの中にも多く含まれます。おなじみセルビアン・メドレー、クロアチアン・メドレー、ボスニアを代表する無伴奏の踊り(グラモチの踊り)が含まれています。
2003.9
感覚伝承文化の極み ROMAFEST 2005
増永哲男
素敵なジプシーに会えるのはルーマニアのトランシルバニア、なかでもティルグ・ムレシュ近郊。威風堂々としたジプシーの男たち、きれいに着飾った女たち、可愛い娘たちに、町の、村の、いたるところで出会うことができます。ヨーロッパのどの民族も持ち得ない共有感性を持つジプシー、母国を持たず文字に記さなかった歴史、知れば知るほどひと(ロマ)の原点が見えてきます。スーパーマイスター・ヤコブ・アティラ、驚愕のスピード・プチ・コザック・エルヌ、野生の貴公子・サント・アティラ、個性あふれる感覚伝承文化の極みをご紹介します。
生粋のジプシー、ほとばしる才能
NPO ROMAFEST JAPAN 理事 徳元裕子
1999年にトランシルバニアの村の公民館で始まったロマフェストも、今ではルーマニア中の音楽家、踊り自慢がその舞台でしのぎを削る一大ジプシーフェスティバルに成長しました。参加チームの増加は言うまでもなく、回を重ねるたびに前年のレベルを遥かに上回るパフォーマンスをやってのける彼らの底知れないエネルギーには驚かされるばかりです。
ジプシーたちは生まれた時から踊りや音楽に接し、自然にそれを自由自在に操る術を身に付けます。喜びに溢れた踊りは他を圧倒するパワーを誇り、悲しみ深い音色は誰の心にも美しく哀しく迫ってきます。ジプシーたちは心から踊り、心から歌います。そんな彼らの姿が私を魅了して止みません。ほとばしる才能の泉を持った生粋のジプシーたちが日本上陸。彼らはその熱い魂を縦横無尽に躍らせ、とどまることの無い進化を私達の目の前で見せてくれるに違いありません。ジプシースピリットに熱いエールを!
大きく花開け、ジプシー文化
NPO ROMAFEST JAPAN 副理事長 根岸千春
国境を越えルーマニアへと足を踏み入れると、なぜだか胸が高鳴る。そして贅沢なプリーツの美しいスカートをはいたジプシーや、立派なつば帽子を誇らしげにかぶり、自信たっぷりにひげをたくわえたジプシーを見かけると、その興奮は一気に度合いを増す。「こんなところに住んでいるのか。」「どんな言葉を話すのだろう。」「何を生業としているのだろうか。」様々な想像が頭をよぎる。
ジプシーはインドの西北部を起源とし、14世紀に欧州へと渡り住み生活を営んできた民族だとされています。その中でも、旧オーストリア・ハンガリー帝国領内に住むジプシーは、他の地域に住むジプシーに比べて、古くから市民権を得ていました。それは、村での冠婚葬祭や年中行事にはかかせない音楽演奏、生活必需品である金物細工や手工芸品の製作・修理がジプシー達の得意とするところであったからです。特にルーマニアのトランシルバニア地方では現在でも寛大な村人達と誇り高く芸達者なジプシー達が密接に共存しています。
多くの人に、このジプシーの優れた文化、特 に音楽と踊り、を知ってもらいたい。そして何より、ジプシー自身に自分たちの持つあふれんばかりの才能の花を大きく開かせ、世界に旅立たせたい。その様な思いから、東欧の民族音楽舞踊を30年間取材し続け、音楽に深く関わるジプシーの音楽と踊りと生活に精通している増永哲男氏を中心に、NPOジプシー支援会議(ROMAFEST・JAPAN)は発足しました。毎夏ルーマニア・ティルグムレシュにおいてジプシーの歌と音楽と踊りの祭典"ロマフェスト"を開催しています。
芸術監督エルビン・バルガ氏の珠玉作品
フォークロールレポート 増永哲男
チェコスロバキア時代からレパートリーの多様さ、衣装の美しさ鮮やかさ、ハイレベルな舞踊技術、天から聞こえる音楽のさわやかさ、メロディのうつくしさ、東欧の数ある国立舞踊団の中でも質の高さが際立っています。Aプロはスルク歴代レパートリーの中からのベストテンプログラム。Bプロはスロバキアで使われている20種類の民族楽器と10の地方の踊りが織り成すドリームプログラム、芸術監督エルビン・バルガ氏の珠玉作品。
ヘンリック・ドゥダのクラシック ポーランド SLOVIANKI
フォークロールレポーター 増永哲男
ポーランドでは一番歴史のあるクラコウ大学(ヤギエロニアン大学)に所属する18歳から28歳のメンバーで構成される民族音楽舞踊団です。1967年、ポーランド民族舞踊を日本に最初に紹介したヘンリック・ドゥダ氏によって創設されました。氏のコレオグラフによるプログラムの中に日本に紹介された踊りがそのまま見られます。クヤビアク、マズール、ポロネーズ、オベレックのナショナルダンスは溜飲ものです。ポーランドの二つの国立舞踊団シュロンシュクとマゾフシェは芸術性を追求し、ポーランドの洗練された美を紹介しますが、このスロビアンキはポーランド民族の持つ「エネルギーと誇り」を前面に出します。リージョナルダンスである地方の特色のある民族舞踊はこのスロビアンキが一番オリジナルに近く、原型のまま展示しています。踊りながら歌うこと、歌ってから踊ること。唄と踊りは一体です。スロビアンキは舞踊手が踊りながら唄います。ここが民俗舞踊の一番の特徴であり、フォークロールレポートの舞踊団選択の基準になっています。
圧巻のクラコヴィアク
マズールFD研究会 菅沼泰彦(すがぬまやすひこ)
世界で一番民俗衣装が美しいと云われているポーランドから”スロヴィアンキ”がたくさんのコスチュームをもって来日します。ただ華やかだけのショーダンスではない、何年も踊り継がれている民族の踊り(フォークロアダンス)をご覧下さい。クラコウの誇る伝統の踊りスロヴィアンキの「クラコヴィアク」、これは圧巻!、他の舞踊団では見られません。あのヘンリック・ドゥダ氏の構成した数々の踊りが日本で初めて見られます。待ちに待った来日です。
マズールFD研究会 菅沼泰彦(すがぬまやすひこ)
ポーランドの踊りの魅力
ポーランド民族舞踊研究会「彩」 川上雄也(かわかみたかなり
ポーランドの踊りはナショナルダンスとリージョナルダンスに分けられます。
ナショナルダンスはポロネーズ、クヤヴィアク、マズール、クラコヴィアク、オベレックがあり
ステップ、ポーズ等が非常に洗練されており、音楽は美しく、うっとりするメロディが数多くあり、そしてどの国にも引けをとらない美しい民族衣装と三位一体となって世界でも稀に見る素晴らしさがあります。
魅力あふれる国「ポーランド」とスゥォヴィアンキ舞踊団
仙台ポルスキータンツ研究会 門間 巌
ショパンで代表される、数々のポロネーズ,マズルカ。その音楽から生まれた数々の民俗舞踊に魅せられ目を輝かせる自分。この民族舞踊団の踊りは、初めて教えていただいたポーランドの踊りでクラコヴィアク、マズール、ポロネーズ、クヤヴィアク、オベレックのナショナルダンスの音楽に魅了され、今日まで踊るごとに新たな感動と素晴らしい仲間を得て続けてきました。今回、夢がかない同舞踊団の踊りに触れる機会が訪れ感激でいっぱいであり、この踊りを皆さんにみていただき歴史の中から生まれた、血のたぎる素晴らしさを味わい満たされることを願っています。
踊る天国
佐 藤 武 志
ポーランドの踊りは、何故か我々日本人の心に響くすばらしい踊りばかりです。哀愁のメロディに乗せて心せつなく踊るクヤビヤク、宮廷の優雅な雰囲気をかもしだすポロネーズ、情熱と華麗さを併せ持つマズール、男性が宙に舞うかのごとき軽やかなオベレック、ポーランドの古都クラクフで生まれ、壮大なスケールで踊られるクラコヴィアク。そして、踊りに合わせて身に着けるコスチュームのあでやかさ、まさに“踊る天国”と言っても過言ではないでしょう。一度、音楽を聴き、踊りを見ただけでポーランドの虜になる。そんな魅力ある国・ポーランド!私も2006年夏クラコウにて鑑賞いたしました。素晴らしかった。楽しみです。
スウビアンキ舞踊団を迎えて
ネットマズルカ 片岡宣義
フォークダンス愛好者にとって、ドゥダのクヤビアクなどで知られる、ヘンリックドゥダ氏は2度来日しています。
最初、1964年に、日本フォークダンス連盟が招聘した時は、彼が、クラクフのノバフタという舞踊団で指導している踊りを主体に紹介されましたが、1981年の来日では、この、スウビアンキ舞踊団で指導している踊りを紹介されたと言います。 日本で言うなら、京都のようなクラクフに於いて、最も、ポーランド的伝統を受け継いできたと言われる、スウビアンキ舞踊団の完成された踊りを、遂に、見ることができ、期待に胸弾む思いです。
ポ-ランドの踊りに接する
名古屋ポ-ランドダンス研究会 吉田幸三
ポ-ランドは侵略・略奪を被る一方の歴史の中で、国の名前を実に三度までも喪った。にもかかわらず、文化のレベルは高く、人々は強い自尊心と誇りを持っている。嫌というほど痛めつけられ、悲惨な目に遭っているというのに、ポ-ランド人は、人を疑わず、来るものの全てを温かく迎え入れてくれる。驚くほどお人よしで、平和を愛する人々である。ポ-ランドの民族舞踊に接し、自らのものにしようとすればするほど、実は、ポ-ランド人の世界観、価値観は、どこの国のものよりも優れて、世界平和を希求することに繋がっているということが実感されてくる。ポ-ランドの民族舞踊が好きになるということは、とりもなおさず、ポ-ランドに関するありとあらゆることが好きになるということ。ポ-ランドの踊りに接することは、世界平和実現への一歩に繋がっている。これだけは、紛れもない真実である。
“オンドラーシュ”
鵜 沢 敏 子
チェコは歴史上、民族的に、文化的に、ボヘミア(地元はチェヒィ)、モラヴィア、スレスコの3 地方に分けられ、民族舞踊にも大きな違いが見られます。
私は機会があり、1997年12月ドゥヴォラナがプラハで開催したクリスマスFDセミナーに参加しました。それまで「ドウドレブスカ・ポルカ」位しか踊っていませんでしたが、これを機にチェコの踊りに魅了され、10 年間チェコに通いつづけ、地方ごとの其々の違い、奥の深さ、膨大な量が判りはじめて、圧倒されています。
ボヘミアは、代表的な民族ワルツの「ソウセツカー」、2 拍子、3拍子が入り交じって踊られる「マテニーキ」、3 拍子を2 拍子で踊る「フリアント」、チェコ民族の血を騒がせて回転し続ける皆が大好きな「ポルカ」等があり、ドイツ、オーストリアの影響も見られます。
モラヴィアは複雑でハナー、ブルノー、ヴァラシュスコ等、文化的には多数の地方に分けられます。ここでは各村ごとに伝統様式も衣装の着方も違う等、単一民族の日本人には理解しにくい部分が数多く見受けられます。南部は“地元特産のワインをたくさん飲み、男は喉自慢”で、踊りの前に唄が先行し、あとで女性を呼んで踊り始めます。中でも特筆すべきはスロヴァーツコ地方の男性の踊り「ヴェルブンク」が2005 年にユネスコの“世界遺産”に登録されました。ブラボー!!!
スレスコ(ポーランド語ではシュロンスク、私たちが学校で習ったときはシレジア)は、ポーランドだった時代が永く、文化の面での影響が大きく見られます。最近踊っている「チェシノク」はチェコの「スタロダーヴニー」とポーランドの「ポロネーズ」が合体し、スレスコの歴史を物語っているような踊りと言えます。
チェコで圧倒的な人気の“オンドラーシュ”、日本公演を大いに期待しています。
ハンガリー民族の芸術天性
フォークロールレポーター 増 永 哲 男
生活の動力源である家畜、とりわけ牛と馬と人との生活密着度はハンガリーにおいて際立っています。
ゆったりとしたテンポから、力強いテンポ、徐々に荒れ狂い勇猛果敢なテンポになる牛のリズム。大地で生まれ育ったチャルダーシュは、自由に踊る牛(男)と手綱を放さないパートナー(女)との、調和のとれた見事な芸術作品です。
ハンガリーの草原・平原を駆け回る馬は移動手段として、また農牧作業の役務に欠かせない貴重な力になりました。常歩(なみあし)早歩(はやあし)駈歩(かけあし)4節2節3節の馬のリズムで、華麗な足さばき でレゲニシュを踊りました。
生活のリズムを活かすハンガリー民族のフォークロール芸術天性にいつも感服します。これらの音楽とリズムを担い続けるジプシーに、彼らを寛容に許容したハンガリー人にも敬服します。
ハンガリーの鬼才コレオグラファー、ジュラフスキー・ゾルタン氏率いるハンガリー国立ホンベード民族音楽舞踊団は、常時 26カップルのダンサーと二つの楽団が在籍するハンガリー最大の国立舞踊団です。HONVEDから選抜されたメンバーにジプシーアンサンブル・ロマフェストの天才プリマーシュ(バイオリニスト)とダンサーを加えた総勢42名の共同制作作品です。
コロ舞踊団を迎えて
高市雄之(フォークダンス愛好家)
コロ舞踊団。オールドフォークダンサーにはどうしようもなくときめきを呼ぶ名前であり、「コロの舞台でね」と口を切るだけで自分も相手も目が輝く経験を持つのは、筆者だけではないはずである。
戦後の貧しかった日本に来日してヨーロッパの踊りとはどういうものなのかを見せつけ、ヨーロッパなど雲の彼方、という当時のフォークダンサーたちを魅了したのが、マゾフシェであり、モイセーエフであり、そしてコロであったことは何とも忘れ難い。
今回が4度目の訪日となるコロ舞踊団であるが、実は前回までのとは大きな相違点がある。
一つの国家に二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国、七つの隣国。こういう放胆なキャッチフレーズを携えて誕生した国をご存知だろうか。今は解体消滅してしまったユーゴスラビア連邦である。その凄惨な消滅の過程は、まだ筆者の記憶には生々しいのだが。
コロ舞踊団は、このユーゴスラビアの国立舞踊団として、1948年に設立されたものである。ユーゴスラビア消滅後にもその名前を引き継いでいる実体は、「六つの共和国」の一つであり、ユーゴスラビア連邦の中核を自負していたセルビア共和国の国立舞踊団である。
では、以前のコロ舞踊団とは無縁の別物かというと、そうでもないので。ここらが、ユーゴスラビアの錯綜した歴史を反映していて、一筋縄ではいかないのですねえ。是非ともご自分の目で確かめて下さい。
ご存知のとおり、バルカン諸国の踊りは基本的にチェーンダンスである。チェーンダンスに血の騒ぐ向きは、今回の公演に挙って参集されるであろう。チェーンダンス愛好者は、足捌きの細部に眼を奪われるあまり、舞台全体の構成に重きを置かぬことが間々あるのではなかろうか。
ペアの踊りを基本とする民族の舞台は、ペアが明確な単位となるので、その単位を平面的立体的にいかようにも配置し構成していくことができる。チェーンダンスの場合は話が異なる。個々のダンサーは明確な単位とは言い難く、四人が連なったものと十人が連なったものと,舞台構成上に大きな違いは生まれない。
この難点をいかに突破するかが、振付師の腕の見せどころであろう。コロ舞踊団におけるその成功例は、たとえばセルビアンメドレーであり、ヴラニエであった。今回の公演にも登場するであろうが、これらの作品がセルビア各地の舞踊団でヒットナンバーの座を占めているのも無理からぬところである。これらの舞台からは、新しい秩序を目指して南スラブ民族が足並みを揃えた建国当時のユーゴスラビアの熱気が、今もなお伝わってくるのだ。
フォークダンスはコロに始まりコロに終わるといわれます。
そのコロの国、セルビアから総勢45名の来日です。
旧ユーゴスラビアの解体によるセルビアの誇りと伝統は、コロ舞踊団に残されました。 旧ユーゴ時代のプログラムから大きく発展し、セルビア民族の燃えたぎる血と力を、
フォークロールレポート 増永哲男
「ROMAFESTに恋して Ⅰ」
徳元裕子
満を持してROMAFEST舞踊団が誕生したのは2001年7月の第三回大会でした。
村ごとに組まれた参加チームの数も飛躍的に増え、それぞれのチームが大応援団を引き連れてGernyeszegに乗り込んできます。
会場となる村の小学校一帯は次々に到着するジプシーたちで溢れ、フェスティバルの開会を待たずにあちこちで即興演奏が始まり、人垣が踊ります。
一口にジプシーといっても、踊りや音楽、衣装には村ごとに特色があります。それぞれのチームが演奏で、踊りで、色とりどりの衣装で、お互いをアピールし合うのです。そんな彼らの表情は、同胞と一堂に集う喜びや、ジプシーとしての誇りにあふれ、実に晴れがましく、その姿に触れる私達の胸までをも熱くします
予選当日はあいにくの雨模様。
校庭の仮設ステージは使えません。
会場は急遽公民館に移されましたが、中は小さなステージの上以外ジプシーですし詰めです。
予選が始まった途端、会場の興奮は一気に頂点に達します。
舞台に上る踊り手たちは最初から真剣そのもの。
彼らの渾身の踊りに、音楽も、観客の魂も即座に呼応し、
会場全体に大きな一体感が生まれるのです。
ジプシーたちは小さな子供でさえ誰もが、
何百人もの観衆が見つめる舞台の上で臆することなく自分を表現します。
それはまさに、先祖代々音楽と踊りとともに生きてきた彼らの血の成せる業です。
そんな才能あふれるジプシーたちの中から
特に魅力的なパフォーマンスを見せた者が決勝に臨み、
そこで最大限を越えた力を発揮し、観客を魅了した者に
金、銀、ブロンズの各賞が授与されました。
その入賞者の中から、ジプシーの魅力を世界に発信するべく
若き音楽家と5人のダンサーたちが日本行きの栄冠を手にしたのです。
ここからROMAFEST舞踊団の快進撃が始まります。
FALLING IN LOVE WITH ROMAFEST 1 by Hiroko Tokumoto
The small community all of Gernyeszeg was bustling with people.
The people gathered were Gypsies living here and there in Transylvania.
Men and women old and young, children and infants, they were all Gypsies.
This was the day of the Gypsies Festival.
Dancers wearing their best for this day went on stage to show their skills keeping in tune
with the performance of skilled musicians representing the village.
With an unique air of pathetic ness yet in a fast tempo performed in many ways arouse your interest .
During the long hours of performance, the men performers dancing in complicated steps slap their bodies here and there rhythmically.
The woman with shorter steps taking in the impact with their whole body flutter their colorful skirts flatteringly .
The rhythm and speed timed exactly to the music is indeed a divine skill.
The audience cheering wildly to this performance, they are entirely Gypsies.
The body moves naturally as long as there is music.
The spirit of the whole room is united into one.
The ROMAFEST began in November 1999.
Fortunately I was able to attend to the first performance, a memorable one.
Being in the presence of so many Gypsies and viewing their performance with my own eyes,
their performance filled with enthusiasm and howling spirit overwhelmed me,
however their song JELEM JELEM closing the festival left a huge wave of admiration within me.
While being moved to admiration of their high technique it makes me wonder
why their performance strikes the heart of the audience in this way.
I come to he conclusion that the dance and music of the Gypsies are handed down from their ancestors,
the principle being the same as a newborn infant who learns to speak naturally,
it is another language that lodges within their soul.
From this ROMAFEST contest showing the spirit of Gypsies, I shall always remember the radiance it has left in my mind.
ロマフェスト JAPAN Tour 2011!
Romafest Japan KAKO
ロマフェストジプシーフェスティバル
フォークロールレポーター 増 永 哲 男
バルカン・ジプシー、中欧ジプシーが集うフェスティバル(ロマフェスト・インターナショナル・ジプシー・フェスティバル)、国こそ違え参加するジプシーに共有するものはジェレム・ジェレムというジプシー語で唄うジプシー国歌です。この美しくも哀しいメロディと歌詞はあなたの心に残るでしょう。
トルコの影響を受けイスラムを信ずるムスリムの品格あるジプシー衣装、カトリック・プロテスタントを信ずるヨーロッパジプシーのカラフルで自由なジプシー衣装 。”現在も着続けるジプシープライド!”
バルカンの強烈大胆な太鼓とラッパ、ヨーロッパの繊細華麗な管と弦の音楽、お聞き下さい。"これがジプシー音楽!"
バルカンのセクシーなチョチェック(マハラ)、ヨーロッパのリズミカルなチンゲリ(カップルダンス)、お届けします "これぞジプシーダンス!"
「ROMAFESTに恋して Ⅱ」
徳 元 裕 子
Gernyeszegの小さな公民館は人々でごった返していた。
集まったのはトランシルバニアのあちこちに暮らすジプシーたち。
男も女も、老いも若きも、子供も赤ん坊も、みんなジプシー。
今日はジプシーたちの祭典だ。
村代表の腕自慢の音楽家たちの演奏にあわせて、
この日のために一張羅を着込んだ
踊り手たちが次々に舞台に上り、その技を繰り出す。
独特の哀愁を含んだ、それでいて気持ちを掻き立てるテンポの速いメロディーが、
幾通りも、そして何時間も演奏される中、男は複雑なステップを踏みながら、
力強くその手で体のあちこちをリズミカルに叩く。
女は細かくステップを刻み、全身にその振動を湛えながら、
色あざやかなスカートを妖艶にひるがえす。
音楽にあわせて刻まれる正確なリズムとスピードはまさに神技だ。
この熱演に沸き立ち大声援を送る観客、彼らもジプシー。
音楽があれば自然に体が動き出す。
会場全体が一気に高揚する。
1999年11月に始まったROMAFEST。
私は幸運にも、その記念すべき第一回に立ち会うことができました。
初めて目の当たりにする沢山のジプシーたちと、
その魂の咆哮とも思える熱気のこもったパフォーマンスに
最初から圧倒されっぱなしでしたが、その驚きと衝撃は、
彼らの心の歌、JELEM JELEMで幕を閉じるフェスティバルの最後には、
大きな感動の波となって押し寄せて来ました。
その高度なテクニックに驚嘆するのはさることながら、
なぜ彼らのパフォーマンスは見ている者の心をここまで打つのでしょう。
それはジプシーの踊りや音楽が先祖代々、
生まれた赤ん坊が自然に言葉を覚えるのと同じ原理で
彼らの魂に宿ったもう一つ言葉だからです。
ROMAFESTというジプシーの魂の競宴で
彼らが放った輝きを私は忘れることができません。
FALLING LOVE WITH ROMAFEST 2 by Hiroko Tokumoto
The ROMAFEST DANCE ENSEMBLE was established in June 2001, the third contest.
Each village had their own teams which increased greatly,
each team was accompanied by a large cheering group arriving at GERNYESZEG.
The whole grounds of the village primary school would be filled with arrivals of Gypsies,
without waiting for opening of the festival they would start to dance, impromptu performance would begin.
The would Gypsies is a whole expression of these people, it should be said that their dance,
music and costume differs according to the village they represent.
Each team with their music, dance and colorful costumes would make an effort to appeal to the audience.
The expression on their faces are indeed filled with brightness and pride to be gathered with fellow Gypsies
which makes even the hearts of the audience glow with warmth.
It was unfortunate that on the day of the preliminary contest the weather was unfavorable.
The temporary stage set up in the school grounds could not be used.
In haste the site was moved to the public auditorium.
However other than the top of the tiny stage it was packed with Gypsies.
The excitement of the audience went to its peak as soon as the contest began.
Dancers going on the stage were in dead earnest from the very beginning .
The hearts of the audience responded immediately to the movements of their dance and music,
the entire room united in air of union.
The Gypsies, even little children go on stage boldly showing their talents,
not heeding the presence of hundreds of people in the audience.
This is truly an art of music and dancing born within them handed down from their ancestors.
From within these performers overflowing with talents those displaying the most appealing performance were chosen
to perform in the final round of the contest.
There they displayed their utmost talents, those fascinating the audience most were presented the gold, silver and bronze awards.
From within these recipients together with five dancers were crowned to go to Japan.
From here the ROMAFEST DANCE ENSEMBLE delightful advance begins.
目から鱗のジプシー 謎解き特別企画
第3回ロマ(ジプシー)シンポジウム
ジプシーってどんな人?宗教はあるの?ロマとジプシーは違う人?ローマで会ったあの悪さのジプシーは?ロンドンのは?パリのは?どこから来たの?歴史は?国はあるの?言葉は何語?文字はあるの?ジプシーって何で旅するの?今どこに住んでいるの?ジプシー音楽って何?踊るジプシー娘って本当?まだまだあります、謎いっぱいのジプシー。 あなたの疑問にお答えします。目から鱗のジプシー 謎解き特別企画!
チンゲララーシュ(チンゲリ)
NPOロマフェストJAPAN 徳元裕子
ルーマニアのジプシーの踊り、チンゲララーシュは、テンポの速い音楽に合わせ、どれだけ細かくリズムを刻み多彩なステップを踏めるかを競い合うように踊ります。個性的で魅力的なフィギュアを即興で生み出す能力が踊り手の技量を決める鍵です。ロマフェストの踊り手は全員が金賞ソロダンサーです。そんな彼らが極上のジプシー音楽で、生き生きと協調し一体となる夢のステージ。これこそロマフェストの真骨頂、ジプシースピリッ トの輝きの極みです。
『ジプシーってどんな人?』
NPOロマフェストJAPAN 根岸千春
ROMAFESTの本拠地であるルーマニア・ティルグムレシュのカフェでの一場面。演奏家の奏でるジプシー音楽に合わせて、店の外にたたずむ壮年のジプシー男性がおもむろに手足をたたき踊り始める。 聞けば、毎日踊るためにそこに訪れるとのこと。 これほどまでに生きることと、踊ることが直結している民はいないだろうと思う。だからこそ、ジプシーの踊りから放たれる命の輝きは見る人の心を魅了してやまない。『ジプシーってどんな人?』その答えのひとかけらを、ROMAFESTの公演を通じて多くの人々に届けたい。
即興創造性、素で地を行く自由さ
NPOロマフェストJAPAN 桐原良子
ジプシーが一緒にいるだけで、どうしてこんなに嬉しくなるのだろう?!
人々を虜にするその秘密はフォークロール度の高さにあるのではないでしょうか。自分達の言葉を話し衣装を着、指を鳴らして遊んでいることが舞台の素晴らしさの裏づけとなっているのは興味深いところです。ジプシーとしてのアイデンティティーの高さや、リズムに子供のころから慣れ親しんでいる生活そのものが、多くのジプシーたちを優秀なダンサーにしています。ロマフェストの持つ即興創造性、素で地を行く自由さに心から憧れます。ジプシーの才能に昇天してしまうのです。
「ROMAFESTに恋してⅢ」
徳 元 裕 子
2003年夏のROMAFESTはちょうど5回目という節目に当たり、
ティルグムレシュの町の野外劇場で盛大に開催されました。前日まで降り続いていた雨が嘘のように晴れ渡った空の下、 開会に先立ちパレードが行われました。 きれいに着飾った数百人のジプシーたちが町の目抜き通りを 楽団を従え、踊りながら歌いながら練り歩く様は圧巻で、 まるで音楽と色彩がうねる波のようです。 町を行く誰もが足を止め、目を見張ります。 あちこちでパフォーマンス合戦を繰り広げながら 既に興奮と熱気に満ちたパレードが会場に到着すると、 いよいよフェスティバルが始まります。
最初は団体戦。
村を代表する踊りの名手と音楽家たちがチームを組んで挑みます。
それぞれのチームの踊りや衣装、音楽や楽器に彼らが暮らす地域特有のスタイルが有り、 見ていて飽きることがありません。
また若者だけではなく子供たちの演技や、昔鳴らした老人たちの
円熟した技が見られるのも楽しみの一つです。 個人戦には各チームから選抜された精鋭たちが参加します。今度はスタイルの違う踊手と一緒に舞台に立ち、 短い時間で自分をアピールしなければなりません。自分を表現することに長けているとはいえ、一瞬のうちに観客の心を掴み、 自分のペースにのせてしまう彼らのエネルギーには脱帽です。
5年の歳月を費す中、ROMAFESTは音楽、踊りの名人たちが大勢参加する大会に成長し、今年の金賞受賞者は80人を数えました。
中には毎年大会に出場して優秀な成績を修めている有名人もいますが、 毎回ほとんどの受賞者が新しい顔ぶれです。
才能あふれるジプシーたちの層は遥かに厚く、 これからも続々と隠れた名人たちが登場してくる期待、大です。
今後ますますROMAFESTから目が離せません!
Falling love with ROMAFEST
In summer of 2003, it being the 5th. ROMAFEST, a grand festival was held at the outdoor theater of Tirg-Mures.
Although it was raining until the day before it cleared up incredibly before the opening and under the blue sky
there was a parade before the opening.
The hundreds of Gypsies dressed up in their best costumes parading while dancing and singing with the band
in tow was a spectacular sight like an undulating wave of color and music.
People in the streets stopped and stared in wonder.
Here and there contesting each other already filled with enthusiasm and excitement, they arrived
at the grounds, so finally began the festival.
The Group contest was the first on the program .
The most accomplished dancers and musicians representing their village teamed up into a group.
In the Solo group best performers selected from each team performed.
In the next showing a dancer would go on stage with a performer of different style of dancing, in a short time,
showing how much your style can appeal to the spectators.
Although the performer is well versed in expressing its talent to appeal to the audience in a short time, I raise my hat to this feat and energy.
During the elapse of 5 years the ROMAFEST musicians, dancers swelled to a great number, this year 80 people received the gold awards.
Among them were people who are renowned, performing yearly, however most of the recipients are new comers to this contest.
There is great anticipation for Gypsies with hidden talents to participate in these festivals.
Hereafter one cannot take its eyes away from the ROMAFEST!!
「ルチニッツァ、ルチニッツァ」
スロバキアダンス研究会クラスナ・ホルカ主宰 大久保精一
1994年の 「マスナガツアー」 でメジラボルツェという、ひと山越えればウクライナという田舎町のフェスティバルに行った時のこと、野外劇場でのプログラムは予定通り進行していたのだが、そのうち一つ演目が終わるたびに、拍手に混じって「ルチニッツァ、ルチニッツァ」というかけ声がかかるようになり、しまいには観客のほとんどが手拍子とともに唱和するようになってしまった。その日のトリだったルチニッツァを早く出せという催促のかけ声だったのだが、彼らのあまりにも素直な反応に、次の出演者に同情しつつも笑い出さずにはいられなかった。
以来、彼らの公演を何度も見てきたが、メンバーは入れ代わっても若い男女が繰り出す踊りのスピードと躍動感、高度なテクニックは変わることがなく、今度久しぶりに来日すると聞いては、今から手拍子とともに「ルチニッツァ、ルチニッツァ」とかけ声をかけたい心境である。
スロバキアにナズドラビエ
山 田 雄 一
私とスロバキアの踊りとの出会いは、93年に来日した国立スロバキア民族舞踊団が初めてでした。当時チェコとスロバキアが別れた事さえ知らなかった私は、そのステージの宝石箱をひっくり返したような華やかさに唯々魅了され、その感動は日に日に心の底に積み重なっていきました。
そして、自分の心に貯まったスロバキアの思いを胸に、去年の6月初めてスロバキアを訪れました。爽やかな気候、どこまでも続く草原、素朴で温かい人たち、それは自分が忘れてしまっていたお金では決して買うことの出来ない豊かさでした。あの感動はそういう風土や生活にフォークロアが根付いているからなのだ!と感じさせられました。ツアーの仲間たちからは、自分たちの最期はミヤバの大地に集い、ドクルトゥの音楽を聴きながら安らかにこの地に眠りたい、と言う冗談が出たほどです。
私は今、世界中のフォークダンスを踊っていますが、自分の中でスロバキアが占める範囲が大きくなっています。いつの日か、先ほどの冗談が本当の事になってしまいそうな、そんな魅力的なスロバキアにナズドラビエ(乾杯)!と大声で言いたいのです。
1996.02.01
マケドニア民族音楽舞踊団“アンサンブル・マケドニア”
スコピエにある マケドニア国立イリヤ・ニコロフスキ音楽バレエ学院伝統音楽舞踊学部 に所属するマケドニア民族音楽舞踊団"アンサンブル・マケドニア"を主体に、シュティプにある ゴチェ・デルチェフ大学音楽院民俗学部 との共同制作アンサンブルです。 このアンサンブルの民族音楽・舞踊・衣装・楽器は「限りなくオリジナルに近く」が特徴です。演目ごとに、その地方の、その土地で使用される楽器で演奏されます。 アンサンブルが使用する楽器は20種類を超えています。 団員は17歳から26歳までが主力、ダンサー全員が演奏し、唄い、踊ります。もちろんミュージシャンも踊ります。マケドニアからの舞踊団は 国立タネツ民族音楽舞踊団(1997年来日・フォークロールレポート招聘)がよく知られていますが、今回は敢えて、私のフォークロール観に一番近い、"マケドニアの真珠"アンサンブル・ マケドニアを日本のフォークロールを愛するみなさまにご紹介します。マケドニアに住む少数民族、アルバニア人、トルコ人、ジプシーの音楽と踊りのレパートリーも素晴らしい。
フォークロールレポーター 増 永 哲 男
タネツ
先 崎 房 枝
バルカン半島の小国マケドニアには、長い歴史と伝統に培われた文化が今も誇り高いマケドニア人達の心に脈々と受け継がれています。
数々の苦難を経て得た独立後目覚ましく発展した首都スコピエ、良質のワインで知られるカヴァダルチ、古い遺跡の残るビトラ近郊、 ユネスコ世界遺産に登録されているオフリド湖とその周辺、そして何よりも人々の温かさはマケドニアの宝です。タネツ創立時のメンバーでコレオグラファーでもある アタナス・コラロフスキー氏の尽力により、日本で数多くのマケドニアの民族舞踊が踊られている事は愛好家の間では知られている事実です。 その素晴らしい踊り、音楽、コスチュームを通して彼らの誇るマケドニアを世界中に紹介してくれるのがタネツではないでしょうか。
日本に居ながらにしてマケドニアを知る事の出来るこの機会に、是非自分の目で見、体と心で古き良きマケドニアを感じてみてはいかがでしょう。
お喋りの声も、庭先に咲く花の色も、美しいハーモニー
大 村 エ リ
イタリア語で“macedonia(マチェドニア)”といえば、「マケドニア」はもちろん、フルーツサラダやフルーツポンチをも指すことばですが、 その由来のひとつとされているように、マケドニアは、色とりどりのフルーツのように、さまざまな民族、さまざまな宗教を信仰する人々が、それぞれの味をもちながら、共に暮らしてきた地域です。 歴史の中で多くの争いが起こり、今もなお火種を残している地域であるとはいえ、 争いのない中での、平和な共生の時代は、その歴史の大部分を占めるものです。
山あいの地に特有の厳しい自然環境のもと、この地に暮らす人々は、自らに伝わる伝統を守るとともに、 共に暮らす他の民族の文化に触れ、刺激を受けながら、ひとつの枠の中にとどめずに、垣根を超えて、 マケドニア、の文化をつくりあげてきました。
この公演では、あたたかで、鮮やかで、異国のものでありながらどこか懐かしい、 人々の交流の歴史(つまり、今も止まることなく、いきている、といえるもの)が育んだ 「マケドニア」を、皆さまの耳や目で、あじわっていただけることでしょう。
お喋りの声も、庭先に咲く花の色も、舞台の上で美しいハーモニーとなってよみがえります。
マケドニア・フォークロール原風景
増永哲男
スコピエにあるマケドニア国立イリヤ・ニコロフスキ音楽バレエ学院伝統音楽舞踊学部に所属するマケドニア民族音楽舞踊団”アンサンブル・マケドニ ア”を主体に、シュティプにあるゴチェ・デルチェフ大学音楽院民俗学部所属舞踊団との共同制作アンサンブルです。このアンサンブルの民族音楽・舞 踊・衣装・楽器は「限りなくオリジナルに近く」が特徴です。演目ごとに、その地方の、その土地で使用される楽器で演奏されます。アンサンブルが使 用する楽器は20種類を超えています。団員は17歳から26歳までが主力、ダンサー全員が演奏し、唄い、踊ります。もちろんミュージシャンも踊り ます。マケドニアからの舞踊団は国立タネツ民族音楽舞踊団(1997年来日・フォークロールレポート招聘)がよく知られていますが、今回は敢え て、私のフォークロール観に一番近い、”マケドニアの真珠”アンサンブル・マケドニアを日本のフォークロールを愛するみなさまにご紹介します。マ ケドニアに住む少数民族、アルバニア人、トルコ人、ジプシーの音楽と踊りのレパートリーも素晴らしい。
「人には人の衣装と音楽と踊りあり」、「マケドニア・フォークロール原風景」を公開展示します。
2012
ロマフェスト・ジプシーフェスティバル
増永哲男
文字で記録を残すガージョ(非ジプシー)の文字伝承文化に対し、文字を持たないジプシー(以降ロマと表記)たちは五感による表現により伝承してきました(感覚伝承文化)。
オリジナルなロマの表現にその土地のガージョのフォークロールを融合し、その土地に、その国に、独特のロマダンスがクリエイトされていきました。だからロマダンスはひとつではありません。西アジアには西アジアの、アラブにはアラブの、バルカンにはバルカンの、ヨーロッパにはヨーロッパのロマダンスがあります。ロマダンスの種類を正確に数えることはできませんが、大まかに民俗(フォークロール)地方の数だけは在ります。
このフェスティバルはそのロマダンスやスタイルを目指す、愛する、研究するダンサーが一同に会し、その成果を発表します。今回はアンサンブル・マケドニアとルーマニアのロマが参加します。 フェスティバルを通じロマへの興味が増え異文化理解に少しでも役に立てればと思います。
増 永 哲 男
2012
クロアチア国立ラド民族音楽舞踊団 LADO
フォークロールレポーター 増永 哲男
クロアチアの正式名称はクロアチア語で、Republika Hrvatska、通称 Hrvatska(フルヴァツカ)、英語表記は Republic of Croatia、通称 Croatia(クロエイシャ)です。クロアチア国立ラド民族音楽舞踊団はクロアチアの首都ザグレブにて発足しました。旧ユーゴスラビアには3つの国立舞踊団があり、マケドニア国立タネツ民族舞踊団(1997年招聘)、セルビア国立コロー民族舞踊団(2010年招聘)に続き、今回はラドを招聘いたします。
長年オーストリア・ハンガリーの文化と共生したパンノニア・スラボニア地方とザグレブを中心とする中央クロアチア地方、アドリア海を挟んで独特の文化を持つダルマチア地方、イタリアと文化を共有するイストリア地方の四つに大きく分けられます。さらに"島の踊り"、"山の踊り"、"里の踊り"の音楽と踊りを見事な衣装とともに展開します。海の踊りと内陸の踊りのコントラストが素晴らしい! 音楽12名・ダンサー32名・衣装・芸術監督各1名計46名の来日となります。
2013
LADO公演によせて
大村 エリ
その歴史的・地理的条件からも察することができるように、クロアチアのフォークロールは、驚くほどバラエティ豊かです。 そんな豊かな"folklor(フォルクロル)"を、"旅する博物館"・"踊る博物館"とも呼ばれているLADOは、まさに最高のかたちで"展示"してくれます。
先ず、目を惹くのは、その民族衣装コレクションでしょう。日本でもお馴染みの、あの"?ahovnica(市松模様)"を彷彿とさせる赤と白のコントラストが美しいプリゴリェ地方やポサヴィナ地方の衣装をはじめ、ファッショニスタも釘づけになること間違いない、微笑ましいインパクトを与えてくれる、スサク島の衣装やヴァルポヴォの衣装など、スラヴォニアからアドリア海の島々に至るクロアチア全土はもちろん、ボスニアやセルビアなど周辺諸国の地域に暮らしてきたクロアチア人の衣装など、ありとあらゆる衣装を網羅した、このLADOの衣装コレクションがとりわけ素晴らしいのは、その衣装がもっとも美しく映える踊り―もとの形やスタイルをほとんど崩さないままに舞台へもちこまれた、最高の熟練度を誇るダンサーよる踊り―とともに魅せてくれることです。
クロアチア語では一般に、踊りを"ples(プレス)"と呼びますが、bal(バル)、kolo(コロ)、drme?(ドゥルメシュ)、tanac(タナツ)、posko?ica(ポスコチツァ)など、いろいろな呼び名や種類があります。大人数で踊られるもの、少人数で踊られるもの、手を前で繋いで踊るもの、後ろで繋いで踊るもの、2人で踊るもの、何人かで輪になって踊るもの、その両方を組み合わせたり交互に踊られたりするものなどがありますが、これらすべてにおいて共通しているのは、ミュージシャンのみならず、ダンサーひとりひとりも、リズムやメロディの担い手、つまり、音楽の一構成要素となって踊るということです。
かつて、オーストリア=ハンガリー帝国が栄えていたころに、貴族がスラヴォニアの村人たちを招聘して、この地方のゆるやかで陽気なコロを宮殿で踊らせたという記録があるそうです。クロアチアの踊りは、決してクロアチア人や踊りを踊る者だけが楽しめるものではありません、外国人であっても、観ているだけの者でも、楽しめるものなのです。(もっとも、彼らのように歌ったり叫んだりしながら踊るのが、一番楽しいのですが。)
同時に、耳へ届く音楽も、言葉にできないほど美しい。 民族楽器コレクションも衣装に劣らず豊かです。クロアチアらしい柔和で明るい音色をうみだすタンブリツァ、サミツァ、マンドリンなどの撥弦楽器、ツィンバルと呼ばれる打弦楽器、リェリツァ、ヴァイオリンなどの擦弦楽器、ミフ、ディプリツァ、ドゥヴォイニツアなど多種多様な笛や、ドゥーダ、シュルレ等のバグパイプ類などの民族楽器が創りだす独特な響きはもちろんのこと、とりわけ、LADOが誇る"歌って踊る"ダンサー&ミュージシャンの歌声が素晴らしい。悲喜交々の恋物語や、自然や神への感謝などがうたわれた素朴な民謡をうたいあげる、力強く温かみのあるLADOのハーモニーには、きっと、誰もが心を揺さぶられることでしょう。 彼らクロアチア人たちは、自らの国を"Lijepa Na?a(美しき私たちの(国))"と呼んでいますが―そうです、"私たち"にとっても、クロアチアの風景や自然はもちろん、フォークロアもうつくしいのです。 クロアチアのこころから、愛とともに※溢れだす美を、ぜひ、全身で、感じてください。
* LADOは、2011年5月29日に、東日本大震災のためのチャリティコンサート《Japanu s ljubavlju (日本へ愛をこめて)》をザグレブにて開いてくださいました。
2013
5カ国ロマフェストジプシーキャラバン・フェスティバルコンサート
フォークロールレポーター 増永哲男 2015
その発祥の地と云われるインド・ラジャスタンから、新天地を求めヨーロッパへ移動していったロマ・ジプシー。現在バルカンやヨーロッパの様々な国で暮らすジプシーたちは、辿り着いた地域に暮らすガージョ(非ジプシー)の宗教や文化と融合し、それぞれの国ごとに独特のジプシー・フォークロールを育んできました。ムガル帝国時代のマハラジャから民衆まで幅広い音楽と舞踊を支え、インドの芸能に携わる部族・カーストから生まれたジプシー。オスマン帝国時代バルカンへ多くの音楽ジプシーを運んだトルコ。ジプシー文化を開花させたマケドニア、ルーマニア、ハンガリー。今回はこの5カ国のジプシーをご紹介します。
ジプシーのステージは即興演奏と即興ダンス、無限のバリエーション。命を削る、身を削る、その一瞬一瞬にもエネルギーを燃やしつくす、真のエンターテイナー。ガージョ(非ジプシー)には最高に難しいジプシー独特の間(ま)とリズム。蓄積され受け継がれるジプシーDNA。熱い熱いフェスティバルコンサートになります。
第4回ジプシーキャンプが前期2月6日(金)から8日(日)、後期3月6日(金)から8日(日)まで開催されます。ジプシーダンスワークショップ、ロマ・ジプシーシンポジウム、ジプシー音楽と舞踊を愛するミュージシャン・ダンサーが年に一度集うロマフェスト・ジプシーフェスティバルの詳しい情報は NPOロマフェストJAPAN のWebページに随時掲載されます。
次回2020年は ― インドからヨーロッパへ ― 後編、トルコ、セルビア、アルバニア、ルーマニア、ウクライナ、ポーランド、スペインの中から、5カ国ジプシーが集結します。 文字で記録を残すガージョ(非ジプシー)の文字伝承文化に対し、文字を持たないジプシーたちは五感による表現により伝承してきました(感覚伝承文化)。オリジナルなジプシーの表現にその土地のガージョのフォークロールを融合し、その土地に、その国に、独特のジプシーダンスがクリエイトされていきました。
だからジプシーダンスはひとつではありません。西アジアには西アジアの、アラブにはアラブの、バルカンにはバルカンの、ヨーロッパにはヨーロッパのジプシーダンスがあります。