正式国名 Lietuvos Respublika (リトアニア共和国)
  国 旗 黄、緑、赤の横三色旗
国 章 赤地の背景に白馬に乗り剣を掲げた騎士
建 国 2月16日 (1918年、独立宣言の日)
面 積 6万5200平方キロメートル
人 口 371万5400人 (都市部68%、田舎部32%)
国土区分 アウクシュタイティヤ、ジェマイティヤ、スヴァルキヤ、ズキヤ地域
首 都 Vilnius(ヴィリニュス)市。人口は58万1200人
民 族 リトアニア人(81.3%)、ロシア人(8.4%)、ポーランド人(7%)
主要言語 リトアニア語
主要宗教 カトリック
通 貨 litas (リタス)で、対ドル相場が固定(1ドル=4リタス)
工 業 軽工業、電子工業、機械工業、エネルギー
農 業 食品加工、酪農、食肉生産、穀物、畜産
輸 出 織物、化学製品、鉱物、機械、電気製品
輸 入 原油、天然ガス、機械、電気製品
資 源 資源に乏しく、砂利、砂、石膏、粘土、泥炭、石灰の小額源
標準時間 GMTより1時間早い。日本との時差は8時間、サマータイムは7時間
電 圧 電気は220ボルト
計 測 キログラム、メーターを使用する
交通事情 右側交通

位置

リトアニア共和国はヨーロッパの一員であり、ユーラシア大陸の西北部、バルト海東部の南岸に位置している。西にバルト海、北にラトビア共和国、東南にベラルーシ、南西にポーランド及びロシアの飛び地であるカリーニングラード州と国境を接している。エストニアとラトビアと合わせてバルト三国と呼ばれ、その中では面積、人口とも最大である。リトアニアの面積はベルギーの二倍、北海道の約78%の面積である。

リトアニアはヨーロッパ平原の西端にあり、国土の大部分は、低い丘陵と低地がしめている。最高地点で海抜293メートル。国土全体の70%が農地で28%が森林で、リトアニアは、大小約4000の湖を有する「森と湖の国」である。

気候

沿岸部は海洋性で、内陸部は大陸性で、両面を持っている。年間平均気温+6。6℃、一月の平均気温-4。9℃、7月の平均気温+17℃、年間降水量は744ミリ、湿度78%。年により、最高・最低気温はそれぞれ+30℃以上、-30℃以下の事実がみられる。ユーラシアの大陸性気候とともに湿った大西洋気団の影響を受け、気候には比較的恵まれている。地面は4か月凍り、川も3か月氷結するが、海は凍らない。

自然

国土の北西部はバルト海に面し、平坦な低地をなす。中央部と南西部は丘陵からなり、氷河の後退によってこの地方には著しいモレーンの堆積がみられ、原河谷から複雑な水系が形成された。特に東南部からカリーニングラード州にかけては、砂丘のある広い河谷、湿地、泥炭地、大小さまざまの湖、松におおわれた砂丘という特有の景観を呈している。リトアニアの湖は4000にのぼる。国土の4分の1を砂地が占めるが、その多くは森林でおおわれ、リトアニアはバルト三国中最も緑が多い。特に南部は松林の連なる砂丘、大小さまざまの湖沼、湿地に恵まれている。

琥珀が波に運ばれてくることで知られるバルト海岸と、カリーニングラード地区から伸びる「リトアニアのサハラ」といわれる長大なクルシュー砂州が、リトアニアのもう一つの景勝地で、ここは海岸保養地として利用され、共和国最大のネムナス川もクルシュー潟に注いでいる。

住民

民族構成はリトアニア人81.3%、ロシア人8.4%、ポーランド人7%、ベラルーシ人1.5%、ウクライナ人1%、ラトビア人0.1%、ユダヤ人0.1%、その他0.6%。

リトアニア人は基本住民を形成する。リトアニア以外ではアメリカ合衆国(特にシカゴ付近、約30万人)、カナダ、オストラリアなどに多く居住する(約150万人)。隣のラトビア共和国のラトビア人と共に、バルト族に属する。印欧語のバルト語族に属するリトアニア語を話す。20世紀初めまで、農業民族として、独自の風俗、習慣、伝承、工芸などを保ってきた。

国語

インド・ヨーロッパ語族のバルト語派に属するリトアニア語。バルト語派は現在する二つの言葉、即ちリトアニア語とラトビア語、及び死語になった古代プロシア語からなる。 リトアニア語はインド・ヨーロッパ語族の最も古い特徴を残しているため、比較研究上貴重な材料を提供し、世界中の言語学者の関心の的になっている。この言語は印欧祖語の推定形に近いのである。

文字はラテン文字を使用し、12の母音と20の子音がある。文法は古いインド・ヨーロッパ語の特徴を保ち、複雑な屈折的タイプで、特に曲用は古い姿をよく伝えている。

歴史

現在のリトアニア人の祖先であるバルト系諸族は、紀元前2000年頃、バルト湾南部に浸透した。この地方は、古代のローマ人に「琥珀海岸」として知られた。リトアニアの名が歴史に表れるのは11世紀初、即ち1009年のことである。

12世紀には北からリヴォニアと西プロシアがドイツ人の騎士団に征服されたが、早くに戦士群をもっていたリトアニア人は1236年の戦いでドイツ帯剣騎士団の進出を食い止め、13世紀前半には大公ミンダウガス(在位1236~63)のもとに初めてリトアニア公国が形成された。1253年、ミンダウガス大公戴冠式で、初めてリトアニア王となった。大公ゲディミナス(在位1316~41)とその子アルギルダス公爵(在位1345~77)が、リトアニアの領土を東に拡大した。1323年にヴィリニュスが首都となった。

1386年、公爵アルギルダスの子ヨガイラが、ポーランド女王と結婚し、カトリックの洗礼を受け、ポーランド王ヴラディスラフ(在位1386~1434)となった。リトアニアとポーランドは同じ君主を戴く連合国となり、リトアニアは1387年にカトリックを受け入れた。これよりリトアニアのカトリック化、ポーランド化が進んだ。

ヨガイラのいとこの大公ヴィータウタス(在位1392~1430)は、1410年のジャルギリス戦でチュートン(ドイツ)騎士団を殲滅し、バルト海から黒海に達する大国を作り上げ、リトアニア大公国の黄金時代を開いた。リトアニアは当時のヨーロッパにおける一大強国となった。

ポーランド化した大公国は、1569年のルブリン連合で、事実上ポーランドの従属領となった。が、1795年の第三次ポーランド分割で大公国領の大部分がロシアとプロシア領となった。プロシア北部にリトアニア人居住地があり、ここでは18世紀にルター派教会でリトアニア語・文化の研究が始まった。ロシア領リトアニアでは、1830年のポーランドの蜂起が波及し、このためロシア化政策が強化された。ロシアに対する蜂起が多発し、激しいパルチザン戦の鎮圧後、厳しい軍政と多数の処刑、流刑や所領没収が続いた。リトアニアでは農民経営は安定せず、工業の発展も遅れたため、第一次大戦までに住民の3分の1が外国、特に北アメリカに移住した。

1918年2月16日に独立を宣言したリトアニアが、ドイツ軍撤退後に進出した赤軍も撃退され、1920年3月、リトアニア共和国となった。しかし同年10月ポーランド軍がヴィリニュス首都地区を占領し、リトアニア政府は臨時首都をカウナス市に移った。1923年に併合した西部の港湾都市クライペダ地方も、ドイツとの紛争の種となり、奪取された。1939年8月のモロトフ・リッベントロップ条約付属秘密定書によりリトアニアのソ連への併合に関する合意が独ソ間でなされた。1939年秋ソ連にヴィリニュス首都が返還されたが、「相互援助」協定により、ソ連軍がリトアニア内に駐留した。1940年6月15日、平和条約違反を理由にソ連軍はリトアニアに侵攻した。8月3日、ソ連軍の圧力下で、ソ連邦に強制加入させられた。

1941年6月14日、数万人のリトアニア人が逮捕され、ソ連への大量流刑の始まりを指しているのである。1941年6月、ドイツ軍はリトアニアに侵攻した。1941~44年、ドイツ占領下で、20万人のユダヤ人を含めて30万人以上の犠牲者を出した。 これに先立つソ連軍の駐留と撤退時にも約4万人以上が処刑され、更に約7万人の市民が西方に逃れ、リトアニア人口は終戦時までに激減した。

戦後も農業集団化が強行され、25万人以上のリトアニア人が北ロシアとシベリアに強制移住させられたが、かなりのものは1954年に帰郷した。戦後8年間は反ソ武力活動が継続され、リトアニアのソビエト政権は1950年代半ばまでに安定したが、その後も民族主義分子の追放が間欠的に行われた。

ソ連のペレストロイカの進展に伴い、1988年に「サユディス(運動)」が結成され、独立運動を展開した。1990年3月のリトアニア最高会議選挙で「サユディス」派が圧勝し、3月11日、最高会議は、ソ連を構成する15共和国の中で、最初に「国家独立回復宣言」、つまりソ連からの一方的独立を宣言した。ソ連側は経済制裁し、1991年1月13日の「血の日曜日」に、ヴィリニュス首都に武力介入を行った結果、14人の犠牲者が出た。しかし、内外から激しい非難が巻き起こり、驚いたゴルバチョフ政権は部隊を撤退させ、1991年8月のソ連のクーデターが失敗に終わった翌月、世界諸国から相次いでリトアニアの独立承認を獲得した結果、ソ連からの承認も勝ち取った。

宗教

リトアニア人の約80%以上はキリスト教徒である。そして主にローマン・カトリックを信仰している。しかしプロテスタント、ロシア正教、福音主義ルター派そして福音主義改革派などの多くの教会もある。リトアニア人、ポーランド人の大多数はカトリック教徒で、ロシア人、ベラルーシ人は正教徒である。

文化

リトアニアの文化は、リトアニアのキリスト教化の始まりが14世紀末と比較的遅かったため、キリスト教流入以前の豊かな民族文化の伝統を残している。また、1569年のポーランドとのルブリン連合以降、ポーランドと一体化したため、文化的にもポーランドの影響を受けている。19世紀末及び20世紀初、ロシア化政策に対する民族文化復興運動においては、リトアニア民族の象徴としてのリトアニア語が重要な役割を果たした。リトアニア語における最初の印刷本は、1547年に出版されたマジヴィーダスによるルターの「公教要理」の翻訳である。

ヨーロッパ最古の言葉と文化に根ざしたリトアニア人の民謡、民話、伝承、更に民俗は現在も伝えられ、特に民謡が有名である。また落ち着いた色調と幾何学模様と花模様を特徴とする民芸品(陶器、皮細工、木彫、織物)も、リトアニアの伝統を伝えるものである。

音楽もリトアニアで古い伝統をもち、毎年夏に全国の町と村で歌と踊りの祭りが開かれ、4年ごとに国をあげての全国音楽祭が開かれている。人口の4分の1以上の人々が一同に集う大規模なもので、参加者は地域ごとに特色のある民族衣装をまとい、会場はさながら絵本の挿し絵を見るかのような華やかさに包まれる。

美術においては、リトアニア文化再生運動の影響を受けた20世紀初頭、画家また作曲家として活動したチュルリョーニスが最も有名で、リトアニアの至宝ともいうべき芸術家である。1992年3月、チュルリョーニス展が、東京セゾン美術館で開催された。

教育

教育の平均水準は高く、識字率はほとんど100%である。

初等・中等教育は、3才から6才児までを対象とする幼稚園、普通教育は第1学年から第4学年までの小学校、第5学年から第9学年までの中等学校、第10学年から第12学年までの高等学校に分かれ、第9学年までが義務教育である。第9学年終了後は職業教育の道が開かれ、第12学年終了後は大学教育となる。

ヨーロッパで最も古い起源をもつ大学の一つであるヴィリニュス大学(1579年創立)はじめ、全国に高等教育機関が14、国立大学が6、国立科学院が6、科学研究所が2である。そのほか、カトリック神学校が2及び国立科学協会が1である。一般的に、総合大学、教育大学、芸術大学などはヴィリニュス首都に集まり、経済・医学・農業などの教育はカウナス市に集まっている。

スポーツ

バスケットボールが最も盛んである。リトアニアが50年ぶりに参加した夏のオリンピックであるバルセロナ五輪(1992年)及びアトランタ五輪(1996年)において、リトアニアのバスケットボール・チームは銅メダルを獲得した。

祝日

1月 1日 元日
2月16日 独立記念日(1918年、独立宣言日)
3月11日 国家資格回復記念日
3月か4月 復活祭(変動祭、春分後の満月直後の日曜日に行う)
7月 6日 建国記念日(1253年、ミンダウガス大公戴冠記念日)
11月 1日 諸聖人の日
12月25日 クリスマス
12月26日 ボクシングの日

重大記念日(仕事日)

 1月13日 自由の守護者の日(1991年、ソ連軍によりTVタワー襲撃の記念日)
 5月 母の日(5月第一の日曜日)
 6月 父の日(6月第一の日曜日)
 6月14日 嘆きと希望の日(1941年、集団流刑の記念日)
 8月23日 黒いリボンの日(1939年、独ソ秘密議定書調印の日)
 9月 8日 ヴィータウタス大公戴冠記念日
10月25日 憲法記念日
11月 2日 亡者の日

国内政策状態

独立回復以来、ランズベルギス最高会議議長率いる「サユディス」を母体とする右派政権の下で民主化及び市場経済への移行が進められたが、極度の生産水準の低下、インフレ、エネルギー不足に直面した。また、急激なロシア離れ政策の結果、対ロシア関係が険悪化し、政治・経済ともに混迷を深める結果となった。

1992年10月及び11月初の議会選挙、10月の憲法採択、更に1993年2月の大統領選挙を経て、政権はブラザウスカス大統領及びシュレゼヴィチュス首相率いている民主労働党に完全に移行した。民主労働党政権は、インフレの抑制、自国通貨リタスの導入などに成功した他、1993年8月末には外交上の最大の懸案であった駐リトアニア・ロシア軍の撤退を実現した。

しかし、1995年12月中旬に発生した銀行危機により、1996年2月8日シュレゼヴィチュス首相辞任を求める大統領令が議会において可決され、2月15日首相にスタンケヴィチュスが指名された。

野党リーダーであるランズベルギス率いる保守党は、1996年10月の議会選挙を経て、議会内多数をおさめた。保守党政権は、前政権の改革路線を引継ぎ、スタンケヴィチュス内閣を全体で改革した。12月4日第8代首相ワグノリュス内閣が正式に発足した。

政体

リトアニアは共和制で、憲法により政権が大統領、議会、政府及び司法を経て権力される。

大統領

ヴァルダス・アダムクス(Valdas Adamkus)大統領は、1998年1月4日、リトアニア大統領選挙で投票の多数(49。96%)を獲得し、大統領当選者となった。旧ソ連構成国で初の米国移民出身の元首であるアダムクス大統領は50年近い米国生活で培った米政府や経済界の人脈などを基に外国投資獲得に力を入れ、企業家を育てていく方針である。

大統領は国家の元首であり、普通直接選挙制、秘密投票において選挙される。大統領の任期は5年である。大統領は首相を指名し、内閣は、首相の提供が議会で承認された後、大統領令により正式に発足する。大統領の任期初は2月25日で、その翌日は就任式の日を示す。

旧ソ連に併合されるまでの独立時代の首都であったカウナスの生まれ、1944年、18歳の時に対ソ武力独立闘争に参加し、ドイツに逃れた後、1949年に米国へ移住した。専門の環境問題では、米環境保護局の中西部責任者を長年務めていた。

政府

ゲディミナス・ワグノリュス(Gediminas Vagnorius)首相が、1996年11月28日大統領に指名された。

主要政策は、民主主義、市場経済を基礎とする国家基盤を確立するとともに、ロシア、ポーランドといった周辺諸国との善隣関係を構築し、西欧機構に自国を統合させることにより、自国の独立及び安全保障を確立することが主なる目標となっている。

議会

ヴィータウタス・ランズベルギス(Vytautas Landsbergis)議長は、1996年11月25日、議会議員により選出された。リトアニア議会であるセイマス(Seimas)は一院制、141議席で、議員の任期は4年である。1996年10月及び11月の議会総選挙より、保守党とキリスト教民主党が連立し、過半数を占める。

議会選挙は全国区比例代表制(70議席)と小選挙区直接選挙制(71議席)を併用し、小選挙区直接選挙制においてはいずれの候補も過半数の得票率に達しない場合、上位2名での決選投票が行われる。

現在の各党別議席数以下のとおり。

保守党 62
キリスト教民主党 14
中央同盟 14
民主労働党 12
社会民主党 11
自由同盟 3
農民党 2
ポーランド人選挙アクション 2
キリスト教民主同盟 1
民族党「若いリトアニア」 1
民主党 1
政治犯及び政治的追放射同盟 1
新民主主義・女党 1
国民民主リトアニア独立運動 1
無所属 1
欠員 3
合計議席数                   141

  司法

裁判制度は、最高裁判所、控訴裁判所、県裁判所、地方裁判所に加え、議会によ立法などの措置、大統領・政府による法的措置が憲法に合致しているか否かを決定する憲法裁判所よりなる。また、行政、労働、家族などの問題に関する訴訟を調査するための特別裁判所の設置も認められている。

  社会政策

平均総月給は256。25ドル(1998年)。部門上、最高平均月給は533。21ドル(金融媒介)、最低平均月給は115。59ドル(農業)である。

年金制度は主として国により運営されている。社会保険税は賃金の31%に相当する額(30%が企業負担、1%が被雇用者負担)とされている。

政府は、老齢年金受給年齢の65才への引き上げ、社会保障制度の改革を進めている。現在、老齢年金受給年齢は、55才(女)及び60才(男)であるが、2009年までにそれぞれ60才および62。5才といった程度に達する。

リトアニアは週40時間、5日間労働、そして28日間の最低休暇制度である。

                        経済状態

旧ソ連に併合の時代には、リトアニアは分業体制下、ソ連内の経済的先進地域として、特に原油、天然ガスなどのエネルギーを旧ソ連から輸入し、工業製品を輸出するとの役割を担ってきた。独立回復後も一朝一夕に変えることは困難である。

リトアニア経済は、現在、管理計画経済から自由市場経済への移行期にあるが、ソ連からの独立以降も旧ソ連各共和国との経済的関係が依然強く、特にエネルギー供給については依然大部分をロシアに依存している状況にある。1992年末、ロシアからのエネルギー供給が不安定になったため、リトアニア経済は大きな打撃を受けた。その結果、1993年のGDPは1989年との比較で約半分程度の水準にまで落ち込んだ。

リトアニア政府は内需の低迷により、市場を外国に求め、西側諸国との自由貿易協定をテコに、経済的つながりが拡大したため、1994年のGDPは1%、更に1995年は3%、1996年は4。7%、1997年は5。7%成長回復が提示された。

他方、リトアニア政府は、1993年6月に自国通貨リタスを導入し、更に1994年4月よりリタスの対ドル相場が固定(1ドル=4リタス)されることとなった結果、インフレ率が下落した。1996年のインフレ率は13。1%、1997年は8。4%が提示された。比較して、1992年のインフレ率、1163%でピークに達した。

雇用情勢については、市場経済体制への以降と民営化の進展により、失業率は増加傾向を示すが、極めて低い程度(1995年6。1%、1996年7。1%、1997年5。9%)がある。

エネルギーについては、如何にして供給先を多様化させ、安定供給を確保するかがリトアニア経済復興の大きな鍵である。政府は現在、自国内にオイル・ターミナルを建設中であり、完成後はロシアへの石油依存からの脱却が期待される。

経済改革の進展に伴い、個人経営の小企業が増加したが、大規模国営企業の民営化及び農業改革は、今後の重要な課題となる。

農業では、旧集団農場資産の民営化、農地の旧所有者への返還などを内容とした農業改革が行われた結果、小規模な農民経営と大規模な共同組合農業が併存する生産構造が形成された。

  財政

通貨に関しては、1993年6月25日、自国通貨リタス(litas)が導入された。導入当初は変動相場制、マーケットの自由取り引きによりレートが決定された。が、相場が安定せず、輸出入業者は打撃を受けたが、政府はリタス特定ハードカレンシーに連動(固定相場制)させることにより、リタスの安定化を目指すとする内容のリタス安定化法案が、1994年4月議会において採択された。同時に、リタス委員会が設置され、リタスを連動させるハードカレンシーの種類及び連動レートを決定する権限を与えられた。同委員会によりリタスの対ドル固定レート(1ドル=4リタス)が決定され、4月より適用されている。

中央銀行の基本的機能は、マネー・サプライの調整、一般商業銀行の監督、国内外勘定の決済円滑化などである。リトアニアには中央銀行の他、二つの国営銀行(貯蓄銀行、農業銀行)及び十数行もの一般商業銀行が存在する。

しかし、1995年12月中旬、中央銀行が2大商業銀行に営業停止命令を発出したため、銀行危機が発生した。金融に関しては、リトアニアの金融行政は見直しを迫られることになった。今後は、IMF(国際通貨基金)及び世銀の指導の下で中央銀行の権限強化を含めた銀行管理体制の変革が続いている。

  産業

リトアニアは工業生産は、資源に乏しいため、企業の大部分は軽工業製品(織物、衣類、皮革製品、家具、家庭用機具)、食品加工、電子工学、機械工業に重点がおかれている。その他、化学、建築材料、医療器械、造船業などがある。

農業はGDPの7。3%、雇用の22。4%及び輸出の20%を占める重要な経済部門で、雇用及び外貨獲得の原動力となっている。農業生産は食肉、酪農といった畜産が主体となっている。畜産部門では、乳牛と豚で、家禽は鶏、家鴨、鵞鳥を中心とする方式がとられている。主要穀物は大麦、小麦、ライ麦、工芸作物は亜麻であり、野菜類の栽培がさかんである。

しかし、国内農産物の競争力の低下、食料品輸入の増加などにより減少傾向がみられる。一方、農産物の輸出は、以前はその90%が旧ソ連諸国へ輸出されていたが、旧ソ連における需要の低下であるため、旧ソ連以外への輸出が拡大しつつある。

国内に唯一存在する原子力発電所であるイグナリナ原発では現在、1500メガワット級のチェルノビリ・タイプ原子炉2基が稼動している。西側各国より早い閉鎖を求められているが、リトアニア国内の80~90%の電力を供給している事情もある。

  貿易

1997年の貿易統計により、輸出38億6020万ドル、輸入56億4420万ドル、貿易収支は17億8400万ドルの赤字を計上した。その原因は、旧ソ連、特にロシアとの間における貿易収支が悪化したためであり、これはリトアニアの主要輸入製品である原油及び天然ガスが国際市場価格に高騰したことによる。

地域別に見ると、やはりロシアとの取り引きが最も大きく、輸出全体の24。5%、輸入全体の24。3%を占める。CIS諸国全体で見ると、輸出全体の53%、輸入全体の¥¥%に及ぶ。しかし、独立以前は総貿易量の約90%以上がソ連共和国を対象としたものであったのと比較すると、年々その依存度は低下し、特に輸出についての低下は顕著である。

ロシア以外の貿易相手国とし、ドイツ(輸出全体の11。4%、輸入全体の18。7%)、ベラルーシ(10。3%、2。3%)、ラトビア(8。6%、1。7%)、ウクライナ(8。9%、1。9%)、イギリス(3%、3。4%)、ポーランド(2%、4。9%)、オランダ(3%、2。2%)が挙げられる。なお、EU及びEFTA(欧州自由貿易協定)を合わせた西欧諸国向け輸出は全体の32。5%、輸入は46。4%を占め、年々増加傾向にある。CIS諸国との取り引きと比較すると、輸出は全体の46。4%、輸入は29。3%を占める。

品目別に見ると、輸入は原油、天然ガスを含む鉱物資源が全体の18%と圧倒的に多い。次いで機械(18%)、輸送機関(11%)、化学製品(9%)、織物(8%)となっている。輸出は鉱物が全体の18%、次いで織物(16%)、機械(12%)、化学製品(9%)などとなっている。

旧ソ連との貿易が低下している背景としては、新たな市場を西側に求め、品質及び価格競争力のある自国製品を西側諸国に多く輸出すべしとの政府方針があり、実際、政府は西側諸国を中心に自由貿易協定締結を積極的に取り進めている。また、将来のWTO(世界貿易機関)加盟も目標としている。

                         国際関係

リトアニア政府は、外交政策の3本柱として以下の政策を標榜している。
● バルト諸国間協力及びバルト・北欧協力の推進
● ロシア、ポーランドを初めとする周辺国との善隣関係の構築
● 西側政治、経済、安保機構への統合

バルト諸国間協力及びバルト・北欧協力の推進
バルト諸国間では、1994年8月のロシア軍のバルト諸国からの撤退完了ととも、対ロシア政策の強調を中心とした三国協力である。三国間では、政治・経済に留まらず、益々広範な協力関係が構築されつつある。1994年は、バルト三国自由貿易協定の発効、北欧協力を範としたバルト理事会及び閣僚理事会の設立決定、バルト共同平和維持軍創設協定の調印などの目覚しい進展が見られた。その後、北欧諸国・バルト諸国関係も緊密化し、バルト首相会合、「5+3(北欧・バルト)」首相会合、「5+3」外相会議及びバルト首脳会議などの会合が開かれた。

周辺国との善隣関係の構築
1993年8月、駐リトアニア・ロシア軍の撤退が完了し、両国関係に改善の兆しで見られた。また、リトアニアはロシアの飛び地カリーニングラードと国境を接していることから、リトアニア領土を経由するロシア軍通過(トランジット)の問題は一応の解決を見たものである。

但し、リトアニアの安定は、地理的・軍事的背景との絡みから、ロシア情勢との切り離して考えることはできない。また、今後も、ロシア国内情勢が急速に安定化に向かうとは予想しにくい現状にある。従って、リトアニアにとっては、かかる不安定な大国ロシアとの関係を如何に良好に維持していくことができるかが外交上の重要な課題である。

リトアニア・ポーランド関係は、1994年に両国間の基本条約となる善隣友好条約が調印され、関係改善に向けた一歩が踏み出された。更に1996年、両国国境は画定され、今後も緊密化させるものである。

西側政治・経済・安保機構への統合
リトアニアは、自国の独立を維持し安全保障を高めるため、西側の政治・経済・安保機構への統合を基本政策とし、具体的は、EU(欧州連合)及びNATO(北大西洋条約機構)への加盟を目指している。

EUとの関係で1994年の自由貿易協定締結に続いて、1995年6月12日には欧州協定調印にこぎ着け、12月11日には正式にEU加盟申請が提出された。リトアニアはマドリッド欧州理事会において、 EU加盟交渉開始につぎバルト三国が他のEU加盟申請国と同じ扱いにされたことを評価している。

NATOについては、ロシアの将来の不確実性への懸念から西側の安全保障体制に組み込まれることを切望するリトアニアは、1994年1月27日にNATO加盟を申請した。また、「平和のためのパートナーシップ(PfP)」枠内での活動強化による実績作り及びEU加盟準備を優先させている。安全保障分野においては、また、北欧などの協力を得てバルト共同平和維持部隊が正式に発足したほか、リトアニア部隊を国連平和維持軍に参加させている。

主要な国際機関としては、国連(1991年9月加盟)、IMF(国際通貨基金)、EBRD(欧州復興開発銀行)、世銀、欧州評議会に加盟し、ユネスコ、FAO(食糧農業機構)、ITU(国際電気通信同盟)、WHO(世界保健機関)、UPU(万国郵便連合)などの国連専門機関にも加盟ずみである。

                   リトアニア・日本関係

交流史

日本はリトアニアの権利上の国家承認を行ったのは、1922年12月20日のことである。両国は1929年2月18日の査証免除協定締結に続き、1930年5月2日商業航海条約を調印した。更に1937年、リトアニアは駐日名誉領事を任命し、日本は1939年11月23日、リトアニアの二番目に大きい都市であるカウナス市に領事館を除幕し、交流が良好であった。

同領事館に勤務していた「日本のシンドラー」ともいわれる杉原千畝副領事の人道的行為をいまだに多くの人々が記憶している。第2次世界大戦中の1939~40年、ナチス・ドイツの迫害をポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人に対して、杉原は自らの判断で日本通過査証を発給し、6000人の命を救った。ユダヤ人はシベリア経由で中南米に渡航することに成功した。1991年9月、リトアニア政府は首都ヴィリニュスの通りの一つを、杉原の功績を称えて「スギハラ通り」と命名した。

日本は1991年9月6日リトアニアの国家を承認し、同年10月10日に外交関係を復興した。1995年4月1日、日本公報センターがヴィリニュスに開設され、篠田臨時代理大使率いている日本国大使館は1997年1月1日に発足された。コペンハーゲン駐在の折田特命全権大使は1997年9月16日よりリトアニアとの関係を統轄している。

リトアニアは、1995年4月に駐日名誉領事を辞任させた後、日本における公式代表をつとめていないことである。駐日リトアニア共和国大使館が1998年に開設された。

1994年1月、リトアニア政府は一方的に日本国民に対し、査証を免除する措置を導入した。

1996年7月9日、国会における日・リトアニア友好協会が村上参議院議員、参議院自由民主党幹事長の指導の下で設立された。リトアニア議会でのユルギス・ラズマ(Jurgis Razma)が率いる相対グループは1997年4月3日に設立された。

訪問

リトアニアより、1997年5月にブラザウスカス大統領が実務訪問し、1991年10月及び11月にワグノリュス首相が実務訪問し、1992年3月にランズベルギス最高会議議長が、1992年10月にシェルクシュニース無任所大臣が、1993年9月にシュレゼヴィチュス首相が、1996年1月にビルジシキス運輸相がそれぞれ訪日した。

日本よりは、1991年10月に鈴木外務政務次官が外交関係復興のため、更に1996年4月に小川外務政務次官がリトアニアを訪問した。国会代表として、故小宮山衆議院議員が1992年2月及び1994年3月、そして西田参議院議員率いる国会議員団が1996年9月にリトアニアを訪問した。更に1997年7月、村上参議院自由民主党幹事長率いる国会議員団がリトアニアを訪問した。

その他、故杉原千畝の故郷の町である岐阜県の八百津町の橋本副町長が1995年7月にカウナス市長の招待で訪問した。そして、楠田郵政審議官が1997年10月にリトアニアを訪問した。

経済関係

1997年のリトアニア貿易統計によると、対日輸出1383万1100ドル、輸入841万4100ドル、貿易収支は541万7000ドルの赤字を計上した。品目別に見ると、対日輸出は牧畜業製品・粉ミルク(80。4%)、光学器械・医療器械(7。1%)及び化学製品(2。5%)、輸入は電気製品(33。8%)、輸送機関(28。2%)及び光学器械(9。7%)となっている。

1992~97年の在リトアニア日本投資は、16万4800ドルに過ぎず(全体外国投資の42位)、両国間の経済関係はこれから発展する見込みである。

1994年11月コペンハーゲンにおいて在ヨーロッパの日系企業を対象としたリトアニア投資環境説明会が日本大使館の主催で開催された。更に1997年5月、リトアニア大統領が訪日されるに際し、リトアニア経済状況・投資セミナーが東京において開催された。そして1997年11月、国際交流基金及びリトアニア外務省の主催で「リトアニアと日本―今後の相互関係」といった国際会議がヴィリニュスに行われたものである。

更に「中・東欧投資促進セミナー」が、日本政府の主催により、1998年3月ウィーンにおいて開催され、中・東欧諸国でないリトアニアが出席するに招待されたものである。このセミナーでは、日本企業の中・東欧及びバルト地域への投資促進という観点から、日本企業の実業活動の円滑化を通じて、日本とこれらの地域との経済関係の発展・強化を図ることを目的として、初めて開催されるものであった。

日本からの金融援助について、1993年6月、日本輸出入銀行・世界銀行の対リトアニア協調融資の調印が行われ、農業、エネルギー及び医療における物品購入のため、4500万ドルが融資されることとなった。そして、1995年7月に日本輸出入銀行・EBRD(欧州復興開発銀行)の対リトアニア協調融資の調印が行われ、社会資本整備の支援を目的に4000万ドルの融資枠が設定された。

  原子力に対する技術協力

株式会社ペスコは、日本の科学技術庁からの受託業務として、リトアニア政府経済省及びイグナリナ原子力発電所と1997年7月に技術協力に関する協定を締結し、以下の支援をこれまでに実施してきた。
l データーサーバーシステムの構築
l 圧力管腐食の原因究明に関する試験と援助
l 燃料チャンネルの酸化膜厚さ測定システム提供に関する支援
また、これまでにイグナリナ原子力発電所の技術者を日本に招聘したのは、何回ものことである。

文化交流

日本における日・リトアニア友好協会が二つ、東海大学及び早稲田大学に基ずいて活躍する。リトアニアでは、ただ唯一のリトアニア・日本友好協会が存在する。1995年9月にヴィリニュスで行われた「日本文化の週」は、それらが協力した結果である。

1992年3月及び4月、今世紀初頭に活躍したリトアニアが誇る画家兼作曲家であったチュルリョーニス展が、東京セゾン美術館に開催された。これに際し、チュルリョーニス音楽のCDが日本のキング・レコードにより提供された。

1992年度により、日本文部省国費留学生の受け入れ、国際交流基金は外交官日本語研修、日本語教師研修、中・高教員招聘、日本語教材寄贈、日本関係図書寄贈、大学などに対する日本関係の施設整備、国営テレビ局への放映材料提供などの協力を行っている。

1994年8月及び9月、東京の劇団「銅鑼」が「センポ・スギハァラ」のリトアニア公演を行い、好評を博した。

1995年9月、ドマルカスが指揮するリトアニア国立交響楽団が東京、大阪、名古屋などを公演した。

劇団「銅鑼」との友好交流の続き、1995年11月に劇団の監督がカウナス・ドラマ劇場において日本の演劇を上演した。

1997年2月、在リトアニア日本大使館が設置することに際し、日本映画週間は大使館の主催で首都ヴィリニュスに行われたものである。 そして、東京からの山海塾が1998年10月にヴィリニュス公演を行った。

姉妹都市

クライペダ市と岩手県の久慈市はともに琥珀の産地であることから、両市は1989年に姉妹都市関係を結んだものである。

 

                     リトアニアへの道

 日本から

日本からリトアニアへの直航便はないが、欧州系の航空会社なら1度の乗り継ぎでリトアニアの首都ヴィリニュスに着く接続がある。特にスカンジナビア航空、ルフトハンザ・ドイツ航空、フィンランド航空などの航空会社が、接続も多く便利といえる。

意外に不便なのが、アエロフロート・ロシア国際航空。現在モスクワからヴィリニュスにのフライト、シェレメチェボ1空港発となっているが、日本からの便が到着するのがシェレメチェボ2の空港。乗り継ぎのためにはトランジットヴィザを取り、荷物を持って両空港間の移動をしなければならないことである。

 周辺諸国から

各国及びリトアニア航空会社によるフライトが、アムステルダム、ウィーン、コペンハーゲン、ロンドン、パリ、ベルリン、フランクフルト、プラハ、ワルシャワ、イスタンブールなどとの間にある。

以上はポーランドとリトアニアの国境をダイレクトに通る道。バスの便が非常に充実しているが、両国間の買い出し客や観光客で混んでいる場合が多いので、早めに予約しておいたほうがいい。 この他にも、ドイツの諸都市、ロンドン、パリ、プラハなどからポーランド経由のバス便がある。

列車の場合、ワルシャワを夜発ち、翌朝ヴィリニュスに到着する便利な列車がある。だがこれは途中でベラルーシの一角を通るので、国境で通過ヴィザ代を徴収される。

 ヴィザについて

ヴィザが必要なのはラトビアのみ。リトアニア、エストニア共に、日本人はヴィザなしで90日間の滞在ができる。ラトビアはちょうど三国の中間に位置するので、何かと不便な感じがするけど、ヴィザの入手自体は至って簡単。

1995年夏現在、ヴィザは三国すべてに有効とされている。つまりヴィザに限っていえば、バルト三国は「バルト連邦」。ラトビアのヴィザの有効期間内ならば、三国内を移動している限り何度でもエストニア/ラトビア、リトアニア/ラトビアの国境を越えることができる。 逆にリトアニア、エストニアに入ってしまえば、もうラトビアのヴィザに拘束されることはなく、入国日から90日間そこに滞在できる。